あなたが望むならいくらでも。
この世界に火を灯す覚悟はできていたのに。



き取れなかった、始まりの声




部屋に入った時に一番に感じたのは漠然とした違和感だった。
淀んだ空気が、ドアを開けたことにより、外気に拡散し、空気の流れができ、曲識の顔の横をすり抜けていった。
部屋の中は暗く、電気も一つとしてついていない。
違和感の正体を把握できないままに曲識は靴を脱ぎ、足で端に寄せるとファゴットの入ったキャリーケースを玄関に下ろし、迷わずにリビングに足を向ける。
部屋の中に光源は全くなかった。
いくつかの家電製品の小さなランプと、彼がよく見るDVDのデッキに刻まれた日付が暗い室内にぼんやりと浮かんでいる。
そして他の明かりと言えば開け放たれたカーテンの所為で微かに街の明かりが部屋の中に滲んでいるくらいのものだった。
何なのだこの違和感は。
違和感の原因も思い浮かばず、そのような感覚的な感情を不得手とする曲識はぎりと眉根を寄せる。
あの要塞のような場所で敵からの進行を防いでいるせいで感覚的な部分が鈍ったのだろうか。
敵の殺意も特に感じない空間で覚える違和感に、警戒したまま、それでもしっかりと足を室内に向ける。

リビングに続く廊下を抜けた瞬間だった。

「トキっちゃか?」

自分の気配を感じ取ったのだろう、声がした。
人がいたことに驚くほど小心者ではない、声の方に視線を向ければ長兄が入れ込んでいたソファーの上にその男は体を投げ出している。
すらりと高く、長い四肢を持っているところは長兄と似通っているが、ふざけた言葉遣いと、バランスよくついた筋肉が相違点と言える、一賊で最も年齢の行っている零崎軋識がいた。
男の輪郭を街の微かな光がなぞる。
暗闇の中、それでもその目がしっかりと曲識を見据えているのを感じた。

「アス」
「久しぶりっちゃね、元気だったっちゃか?」

彼はいつものように優しく笑った。
しかしいつもの鬱陶しさの裏にある覇気が感じられない、と曲識は思う。
それこそがこの違和感の正体だろうか、と一瞬考えるがそんな根源的な感覚を呼び起こすほどに曲識は人の感情の機微を気にする方ではない。
それではなんだというのか。
緩く思考が乱れるのを感じる、断続的な不安定感、嫌な、心の流動だと、曲識はゆっくりと深く息をついた。

「アスこそ元気だったか、僕は相変わらずアンダーグラウンドな生活をしているが、健康に関しては特に問題はない」
「それならいいっちゃよ、お前が一番自堕落な生活してるし、顔見る機会もないから心配してたっちゃよ」
「アスが、か」
「いや、レンが、だっちゃ」

軋識は苦笑すると、曲識から視線を外し、再び深くソファーに体を沈めた。
もう少し、傍に言った方がいいかと足を動かそうとした瞬間、足の裏に何かが触れ、足もとがぬめった。
足元を見れば点々と液体が滴った跡がある。
何かと思い、視線でその筋をたどれば椅子の肘かけに乗せた軋識の手の指先からは水滴が滴り、微かな光源に照らされ光を弾いた。
その色は赤い。

『殺人だろうがなんでも構わないのだよ、私は』

その赤に、昔交わした会話を思い出した。
まだ、幾らか若い時の話だった。
相変わらずあの男は針金のような四肢をしていて、鋏を振り回していた。
正確にそれをふるい、殺人を行っていた。
あの鋏は、いつだって血に塗られていた。

『あの暗い場所で、ずっと考えていたんだ、独りに戻ってしまうくらいなら、幾ら世間体にそむいた存在でも構わない、ただ誰かの為に何かできればいいってね』
『レンらしいな、悪くない』
『もう、あんな生きていることが誰に影響を与えるでもない、そんな状況だけはまっぴらなのさ、世界に必要ない存在でいることほど馬鹿馬鹿しい命の空費はないよ』

そういい、朗らかに、自殺志願は笑った。
一片の曇りもない、迷いすらない、そんな笑顔で笑った。
それを見て、自分は思った。
この人の為に生きてみよう、この人が守りたいものを一緒に守るために生きてみようと。

しかし。

暗い部屋のソファーの上に座った自分より年の行った青年を見ながら、曲識は違和感の正体に、気付く。
暗い部屋、電気のない部屋。
あの男が、唯一漏らした弱音、帰りたくない場所。
一瞬眩暈がした。
一つ息を吸い、背を壁に預ける。
脳裏を、多くの映像が流れて行った。
それは押し流すように、自身の防御機構が、あの男の存在を追い出さんとするがの如くに。
一回強く目をとじ、深く息を吸う。
映像は、あっけなく掻き消え、心の芯が深く落ち着くのを感じてから、曲識は口を開いた。

「レンに、呼び出された」
「レンに、っちゃか?」
「この前電話があってな、今度の週末にでも、みんなでカレーでも食べようとかいっていた、僕は実際あの酷いカレーは食べたくないのだが、まあたまには一賊集まるのも悪くないと思ってな」

「だが」

顔をあげる。 そこには、大将と呼ばれる男の顔がある。
どこか歪な、その表情に、また、絶望が頭を擡げる。
しかし自分に言い聞かせるためにはっきりと曲識は、世界を定義した。

「レンは、死んだのだな」

言葉に、軋識は息をのんだ。
その反応に曲識は確信する。
あの男は死んだ、流れた血は、今、軋識の指先から滴っているのだと。
悪くない、と口の中で呟く。
そうだ、悪くない、悪いことではないのだ。
自嘲するように、息を軽く抜き、口角を持ち上げる。


「レンは軽率な男だったが、家族との約束は、たがえないからな、いくら人識が関わっていても」


悪いことではない、この世界に生きている限りこの事象は、必然であり必定だ。
それでも思い出す、たった一つ、彼の言葉を。
曲識はゆっくりと、感情を沈め、軋識をまっすぐに見つめた。

「アス」
「なんっちゃか」
「レンは・・・誰かの為に死ねたのか?」
「・・・ああ」
「独りでは、なかったのだな」
「ああ」


「なら、悪くない」


光だった、あの男が求めたのは光だった。
孤独という暗闇に差し込む一縷の光、家族。
盲目的に愛することができて、愛してくれる存在。
その存在であろうとした。
彼にとって、孤独を忘れらせる存在であれるように、そこから救い出せる存在で在れるように。
彼が、昔だれもしんじることをしなかったじぶんを信じ待ってくれていたように。
彼に刺す、一つの、弱くてもそれでもいい、照らせる光で在りたかった。
あろうとしてきたのだ。


彼の最期まで、傍にいることは叶わなかった、だがこれからも自分は、その存在であろうとしよう、そう曲識は思う。


じっと、暗闇で目を閉ざし、流れる感情を感じる。
感情の起伏がほとんど感じられない自分だったが、微かに波打つものを感じる。
これが悲しみだろうか、憎しみだろうか、怒りなのだろうか。

煩わしい感情だった、自分を引き裂いてしまいそうなほどに。
しかしその煩わしさも、痛みも、受け入れることを曲識は今学ぶ。
それも一つの「孤独ではない」という、事象なのだろうと。

曲識は顔をあげ、玄関へと足を進め、キャリーケースの止め金を外した。
ばちん、と、静寂に音が響き、ファゴットが玄関の僅かな光に、色を弾いた。
その、表面をゆっくりと撫でた。
無機質のものが持つ独特の冷たさが、曲識の手のひらに伝う。
すぐに自身の温度と溶け合う、その無機質な物質は、誰かを殺すときにだけ触れる、その温度をもったものだ。



待っていろ自殺志願。
今すぐに、お前が「独り」ではなかったことを証明してやる。
お前が生きたことで残した証明の証を、この身を以て。



「零崎をはじめるのも、悪くない」



呟いた言葉は、静かに。
部屋に拡散もせず、ただ静かに、しかしそれでも。
確かに、それは。



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零崎三天王。
人間試験、人間人間3の後のつもりです。
曲識さんをどうもまだ掴み切れないです。