我ながらチープだと、軋識は思った。
彼の瞳の中に揺れた不安に対して、軋識は言葉を持たなかった。
もし、ここにあの科学者がいたら、もっと違った形で、彼の心に巣くう、不安を溶かしきったに違いない。
バーナーで炙るように、強力な言葉で持って。



琥珀色の懺悔




から、ん。
静寂の部屋に響いた、コップの中の氷が、立てた透明な音に、軋識は我に帰る。
音の方に視線を戻せば、そこには飲みかけのウィスキーがある。
もう1つのグラスは倒れており、中身が机に、そして滴った床に色を落としている。
机の上で、透明な固体はじわじわと溶け出している。
だんだんと冷静さを取り戻していく思考回路。鮮明な意識が戻ることに軋識を苛むのはいいようのない、自己嫌悪だった。
軋識の前にいる彼は、だんだんと思考を眸に宿しつつある、しかし、そこに映る色は軋識が望んだ色ではなかった。
深淵のような、覗くのが憚られるような。
それは、先程の行為が、逆の効果を誘発したのを、確実に示唆していた。

「アス、君は」

残酷だ。

絞り出すような彼の言葉に、軋識はなにも返せない、なにも言えない、寧ろ身体中の器官が活動を停止していた。
否、すでに脳が機能を停止していた。
神経伝達物質が、軋識の活動を否定していた。
弁明をすれば彼は笑うだろうか、しかし弁明の言葉もない、何故なら軋識が発した言葉はまごうことなき、ただの真実で本心だった。
だから沈黙した、さすればこれは差し詰め恐怖か、彼に捨てられ殺されるかもしれぬという恐怖だろうか。

もしも。
もしももしも。

この仮定は何度も繰り返し軋識がした、仮定だった。それでも答えはでない。
曲識や人識に聞かれたら自分は間髪入れず、回答できる自信がある。まず、人識はこの状況を知らないし、曲識は曲がりなりともこんなことを聞いてこないだろうが。
―そんなの家族が大切にきまってるっちゃよ。
でも、彼は駄目だった、駄目だと確信をして、いた。
彼に聞かれたら自分は答えられないことを。


「アス、もう一度聞くよ、アスはアスが愛している少女が、零崎を殲滅すると決めたら、どっちにつくんだい」


家族を、私を。


「捨てるのかい」


真っ直ぐな、視線だった。
真っ直ぐで真っ直ぐすぎる視線だった。
いつも優しい笑みを湛える温かい視線ではなく、咎めるような、責めるような、まるで敵視するようなそんな。
それは、一番、軋識が望まない、ものだった。
胸が、痛い、張り裂けそうだった。
暴君と、家族と、彼の顔が、浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

「レン」
「答えてくれ、アス」

から、ん。
氷が、再び静寂を震わせる。
切実な声音に、軋識はさらに言葉を失う。
不安を宿した眸はすでに力が戻っていた。まっすぐに軋識を射抜く眸は、ただまっすぐだった。
決意だ、これは。
彼は、いつもの顔に、いつもは笑顔を宿すその表情筋に、笑顔を繕ってはいなかった。
泣きそうな、悲しそうな、それでも強い意志で、強い思いを胸に抱いて、軋識をまっすぐに射抜く。
犯罪者を断罪するように、あるいは。


「私は、アス、君を殺したくない、でも、君が家族を捨てるのなら」

私を捨てるのなら。

「私は家族のために、アス、君を殺すよ」


アス、応えてくれ。


耐えきれない、そう思った。
軋識はそこで初めて、彼から視線を外し俯く、そして右手で目を覆う。
そして、本心を、告げた。



「わからないっちゃ、レン、俺にはわからない」


























嘘をつけばよかった。
ただ、彼を捨てないと、そういえばよかった。
すれば彼は笑っただろう、ただただ柔らかに笑っただろう、そして喜んでくれただろう。
初めに、誤魔化すことなんかせず、しっかりと、まっすぐに、彼の想いに応えていれば。
二度目の質問は、詰問は、自分たちの間に介在しなかった。

(甘えていたんだろう、俺は)

彼は、零崎双識は、自分の事を、そして家族の事を、許してくれるのだろう、そう思っていた。
誰よりも彼が家族に依存している事を知っていたのにもかかわらず、軋識は、甘えていたのだ。
許してくれるだろうと、絶対的に信仰さえ、していた。
しかし、彼は。


























「恋と、愛は違う、恋する、と愛するは違うと思うね、絶対的に」

暴君の部屋そのソファで惰眠を貪っていたら、声が降ってきた。
古い夢だった、そして現実だった、故に軋識−軋騎がその人物を認識するのに一瞬、時間を要した。
白いスーツ、白が混じった髪。
それは、軋騎、そして彼の持っていた色とは正反対のコントラストで存在する男。
害悪細菌、兎吊木垓輔、その人だった。
軋騎は、どうしようもなくこの男が嫌いだった、飄々としている癖に、ときどき核心を突く発言をしてくる。
二重の名前を所有し、相反するキャラクターを演じる自分を、正確に見抜いていた。

「しかし、正確に優先順位をつけるには難しい概念だ、好き、と愛しているは、つけやすいだろう、愛しているが、優先順位は高い、だけれど、そもそも愛と恋は絶対的に概念が違うように、思う」

男は、軋騎にグラスを差し出した。
ぼんやりとしながらそれを受け取るために体を起こし、ソファに座り直す。
琥珀の色をした、液体。
その色が、その香りが、軋騎の記憶を鮮明に浮かび上がらせる。
舌に残る味も、鼻先をかすめた匂いも。

「・・・っ」

様々な記憶が、彼との間にはあった。
共闘したことも、人識に手を焼いたことも、曲識に手を焼いたことも。
家でともにカレーを食べたことも、買い物に出かけたことも、沢山あった。
それでも、今、軋識の記憶のなかの顔は笑っていなかった。
あの日の夜の表情が、軋識の脳裏からは離れない。
確かに、軋識は彼に恋をしてはいなかった、恋慕を抱いてはいなかった。
それでも愛してはいたのだ、誰よりも、誰よりも、愛してはいた。
それでも優先順位を付けることはできなかった、なあなあに、完全な区別をせずに。

「君の最大のミスは、二つのキャラクターを演じてたくせに、演じ切れなかったことだ、家族、そんなに近しい存在にも君は感付かれてはいけなかった、もう一つの自分がいることを。そして、それはこっちに対しても同じだよ、零崎軋識、そして式岸軋騎くん。《一群》にいるときは、君は完全に死線の蒼を愛さなくてはいけなかった、そして零崎一賊にいるときは、君は完全に家族を、そして」
「零崎双識を」
「愛さなくてはいけなかったのさ」

それがたとえ演技であっても。

「だから君は本当は今、彼の事で心を痛めてはいけない、君はただ、ここでは、死線の蒼に対して完全に従順でなくてはいけないのだよ、街」

もう過ぎたことだけれどね。

そういうと、男は肩をすくめた。
そして、軋識の隣に座り、琥珀の液体をあおる。
から、ん。
氷が、グラスに触れ、涼やかな音を立てて、鳴る。

「君はきっと、自分が思っているより、不器用な男だ、そう思うよ。君が抱いてた死線の蒼への恋慕も、零崎双識への愛情も、きっと本物だった。だけれど、街、君は残酷だった。二重のキャラクターでごまかしていたけれど、結局君がしていたことは裏切り以外の何物でもない」
「わかってる」

軋騎は、そこで俯き、強く目を閉じた。
暴君、一賊、曲識、人識、そして、零崎双識。
まっすぐと、敵意を以て、軋騎を−軋識を射抜いた、双識の表情。
それに、胸が痛んだ。

「それでも害悪細菌、もう一度でいい、俺はあいつに逢いたい」



そしてただ、笑って欲しい。
許して欲しいのだ。
否、許してくれなくても、構わない、ただその笑顔を見ることが出来れば。
記憶の中の彼が、笑ってくれればそれで。


ただ。




流れ落ちた透明な想いは、琥珀色の液体に混じって消えた。




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軋識が大好きですが、同時に彼はすごく残酷な人間だったな、と思います。
あんなに、家族が大切だという発言をしながらも、結局は最後まで裏切っていたのではないかと思うのです、心のどこかで。
なので、軋識がもし、一賊の滅亡後、暴君のもとに帰っていたらきっとこんな感じかな、と思います。
このあと人識くんと再会してたりして。
一番長生きしたっていうのはどういう意味なんだろうか。曲識の後すぐ死んだってことか、軋騎になって長生きしたってことか・・・。
公式の記録ではってことは軋騎の期間は入らない気もするんですが・・・。
うむー。
謎起き男、零崎軋識、ですね。



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