『わたし、ゆうがみさんのようなやさしいひととけっこんしたいなぁ』
『まあ、心音ったら』
『しかたねえな、そんな男がココネの前に現れるまで、俺がまもってやらあ』
そんな、他愛無い話で笑いあった幼い日。
そこにあったのは確かに「喜び」だけだったはずなのに。




私の眠りを護るひと









「…ん」

夜更けに人の気配を感じ心音は目を覚ました。
寝返りを打ちながらのそりと体を起こし、寝室からリビングに視線を向けるとそこには黒い人影があった。
部屋の電気は付いていないが窓半分だけ開けられたカーテンから月明かりが部屋に差し込んで、その人物のことを照らし出していた。
その人は心音の大好きなソファに座り、缶ビールを片手に窓の外を眺めていた。
窓からさす白々とした光が、漆黒の髪と、そこに一部入っている白髪に触れ、きらきらと光っていた。
7年分。年を取り、苦悩した彼には深い隈が刻まれている。そしてボタンを二つ程外し、ネクタイを外したYシャツ姿の夕神はもう、あのスーツにきられているといった印象はなく、町ですれ違う大人の男の人のようだった。
法廷での対峙した時はあまりに必死で、そして彼を助けたときは積年の思いが叶ったことに気分が高揚していたために全く気が付かなかったが、夕神が記憶の中のまだあどけなさが残る「夕神お兄ちゃん」から、心音の知らない大人の男性になってしまっていることを心音は改めて思い知った。
ぼやぼやとして焦点を結ばない思考を持て余しながら、心音はその横顔に声をかける。

「夕神さん…?」
「ああ、悪ィな。起こしちまったかィ」
「いいえ」
「ソファで寝ちまったから勝手に運んだぜ」
「ああ、ありがとうございます」

見ると心音は今日、裁判の時に着ていた洋服のままだった。流石に黄色のジャケットだけは帰宅草々、脱ぎ捨て壁のハンガーにかけてあったが、他はそのままだった。
どうやら、裁判の後みんなでラーメンを食べて、帰りにコンビニでいろいろ買い込んで家に帰ってきて、テレビをつけてソファにダイブをした後、そのまま眠ってしまったらしい。
流石に元気が取り柄の心音だったが、連続した裁判に、警察による拘留、封印していた過去を思い出すといった肉体のみならず精神に負荷をかける毎日を送ったせいで、そして積年の願いを叶えたことによる安堵から気が抜けてどっと疲れが出てしまったのだろう。
みんなの反対を押し切って、泊まる場所の無い夕神を家に連れてきたのに何のおもてなしもしなかった上に、昔のように世話を焼かせてしまったことに心音は自分を恥じた。
一度体を起こし、リビングに顔を向けるように頭と足の位置を入れ替え寝ころびなおす。

「それにしても、みなさんなんであんなに怒ったんでしょう」

夕神の今晩の寝床をどこにするか。そんな話になったときに「うちに泊まっていけばいいですよ、昔みたいに一緒にトランプしましょう」と一番に口走ったのは心音だった。
みんなは必死に心音を説得しようとしたが(成歩堂や王泥喜だけではなく御剣検事局長まで自分の検事局長室か自分の家に泊めるとまでいってくれた)、何も考えていなかった心音は「夕神さんがいてくれたら一人暮らしでも安全ですし!」とまで言い切り、周りの反対意見どころか、あくまでも全力で固辞しようとしていた夕神の意見をもバッサリと切り捨てた。
梃子でも動かない心音の様にみんなは一様にため息を吐いたが最終的には一晩だけという条件でそれを認め、御剣局長は明日までに少なくとも夕神の家を手配すると約束し、「夕神、また刑務所に行くなんてことになったらシャレにならんぞ」というとどめの一言を言い放った。それに夕神は「あたりまえだ、御剣のダンナ。師匠の娘を守ることはあってもだ、手を出すことも、傷つけるようなこともするつもりは毛頭ねえ」と声を荒げたのだった。
夕神はその時のやり取りを思い出したのだろう、深くため息を吐くと右手で眉間のあたりに手をやり頭を抱えた。

「そりゃあ、怒るに決まってらァ。てめえも年頃の女なんだ。もう少し危機感持ちやがれ。ほいほい男連れ込んでんじゃねえぞ」
「えー」
「えーじゃねえ。てめェに何かあったら師匠に顔向けできねえだろうが」
「もう、夕神さんってばお母さんのことばっかりですねえ」
「師匠だけじゃねえ、俺だってそうだ。てめェには誰もが認めるまっとうな男と結婚して幸せになってもらわねえと困るんだ」
「やだなあ、大げさですよ〜結婚だなんて」
「いつまでも俺が守ってやれるわけじゃねえんだぜ」
「あはは」

だってまだ私18歳ですもん。オオゲサですって。心音は笑いながらベットの下に落ちてしまっていたクッションを拾い上げるとそれを胸にぎゅうと抱き込み、ごろりと転がった。
そして顔をふかふかのクッションに押し付ける。

「夕神さんはやさしいなあ」

それは自分の中にある嬉しさと悲しみを誤魔化すためだった。
彼に心配をされて嬉しい。そして同時に何故だかわからないけれど、彼の言葉にぎしりと胸が軋んで苦しい。
そんな状態で夕神に対して自分で制御の効いていない感情を晒すことは彼にとっては格好の分析対象になってしまいかねないからだ。
自分でも分析できていない感情を彼に晒すことは流石に素直に生きている心音にとってもできれば避けたいことではあったし、夕神は心理操作がうまい。もし夕神にとって不都合な感情を心音が持っていたとしたらそれを他の言葉に誘導されてしまうだろう。
そして同時に自分の視界を覆ってしまうことで、彼の感情を探ってしまうことを完全にとは言わないが防ぐことができる。
寝ぼけている状態の脳でも一瞬のやり取りで判ってしまう彼の感情のノイズ。
心音の成長と、再会。そして自分のではなく心音の無実を喜ぶ彼の声。そしていつまでも子供のように無防備な心音に対しての怒りに似た呆れ。しかしそれだけではない。彼の中に混じる、僅かな悲しみの感情。
その感情の意味を、心音は分析したくなかったのだった。
きっとその結果、心音はきっと自分の感情の意味に気付かされてしまう。自分の心の矛盾の意味にだって辿り着いてしまいかねない。それによっていろいろなものが変わってしまうのが心音は怖いのだ。
良い意味でも、悪い意味でも、きっと今まで通りではいられなくなってしまう。

私を助けてくれるのは、師匠の娘だから。
私を大切にしてくれるのは「お姫様」の「ナイト」だから。
私の幸せを願ってくれるのは、お兄さんのような存在だから。
私が彼を助けたかったのは私に降りかかった嫌疑を全て被るためだったから。

それらのすべてが本当であればいいと望む一方、ではなぜ自分と彼の中にはそれに矛盾した感情があるのだろうかと心音は考えそうになる。
本当に自分は親切心から彼をこの家に泊めることを提案したのだろうか。昔のように兄弟の様に過ごしたくてこうしたことを言ったのだろうか。
表面的にはそうだったかもしれない、でも本当は違ったのではないか。もし、親切心から彼を泊めたのだったら今までの一連の彼を巡る裁判や何から考えても自分の中には満足感という「喜び」だけがあるはずではないのだろうか。
でもそうでないのは・・・。

(だめだ、考えちゃ)

心音は思考を追い出すように頭を振り、ごろごろとベットの上で転がった。
すれば、彼の優しい低い声が「ココネ」と名前を呼ぶ。それに心音はがばりと顔をあげた。

「は、はい。なんでしょうか」
「くだらねェことやってないで早く寝ろ。明日も早いんだろ」
「う、夕神さんは」
「久々に自分の好きに過ごせる時間なんだぜ、ほっといてくんなァ」

そういうと夕神は困ったように優しく笑った。
その感情にも、心音のココロは強く締め付けられる。切なくて甘くて、そんなノイズが自分の中に走り抜けていった。
心音はその感情をやり過ごすと、一つため息を吐きそしてのろのろとクッションに再び顔を埋めた。

「わかりました、ごゆっくり。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」



でもまだ、今は。
このぬるま湯のような幸せの中で。貴方が生きている喜びを感じていたいから。
いつかは向き合わなくてはいけないだろうきしりきしりと胸の中で音を立てるココロに気付かないふりをして、心音はギュッと目を閉じた。



いつかこの感情が目覚める、その日まで。






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