自分の声も言葉も思いも願いも全て。
この世界なんかと関係がなくて、高い壁に阻まれて地に落ちてしまったのだと。
そう、思っていた。そう諦めていたのだ。





ハロー、ハロー









「見違えたぜェ?」

裁判が終わった後の控室のソファに夕神と心音は並んで座っていた。
さっきまで騒いでいたメンバーは今、席を外している。
検事局長と青い弁護士は心音の釈放の手続きに向かい、赤い弁護士は女子たちを連れてトイレを始め裁判所の中を案内しに行ってしまっていた。
そのため、広い部屋の中にはたった二人だけがとり残されている。
先日まで死刑囚として投獄されていた罪人検事と、今日の裁判で被告人として裁かれそうになった新米弁護士。
普通であれば危険人物と目されるような二人をこんなところに放置したりはしないだろう。
若くして検事局長となった御剣に反感を持つ古参の先輩検事などに見咎められたら何を言われるかわからないような状態だ。
しかし、夕神にしてみれば、心音と二人肩を並べていることについては何の特別なこととも感じてはいなかった。
7年前の自分にとっては、そしてそのまま時間が止まってしまっている夕神にしてみればそれはあまりにも普通な光景だったからだ。
7年前。裁判が終わった後、休みの日。夕神はあの宇宙センターに足繁く通っていた。そしてそこでいつも真理に心理学を習っていた。
その時に傍にいたのか彼女だ。
真理がいなければ夕神は真理の実験室で彼女と二人で遊んだ。そこにしのぶという少女が混じることもあったが大抵二人でロボットと遊んでいた。
大きなヘッドホンを重そうにしながら、いつもどこか悲しそうにする彼女と一緒に。

夕神の中の心音の記憶はすっかり7年前で止まってしまっている。
まだ幼かった彼女は21歳の夕神が片手で抱き上げてしまえば背中側からではその姿が隠れてしまうほどに小さかった。
そしていつも表情を曇らせてじっとうつむいていた。
夕神は彼女が笑っているところをほとんど見たことがない、そう思ってしまう程に心音は悪く言えば暗い子供だったのだ。
その上、彼女は酷く脆弱な精神を抱えていた。自分が母親を殺したかもしれないという事実に到底耐えられないと思われるほどに。
だからこそ、夕神は全ての罪を背負い、口を噤むことに決めたのだった。
彼女の秘密は自分がすべて抱えて闇へと消えてしまえるように。
彼女の精神を守るために。そして自分のことを忘れてたのしく生きていくことができるように。
そう、願わくば今目の前にいる彼女のように。

すらりとした長身の体躯。
くるくると変わる表情、その笑顔。
そして、背筋を伸ばしまっすぐに立つその姿勢は。
それは自分を犠牲にして彼女を守り続けた結果、可能であれば彼女に掴んでほしいと獄中で思い描き続けたそんな理想の姿そのものだった。

二人っきりの状況の中で今まで何を言おうかと逡巡していた様子の彼女は、夕神の言葉に驚いたように目を見張った。
しかし次の瞬間には表情を崩し、自慢のポニーテールに手をやりながら、嬉しそうにほほ笑んだ。

「本当ですか、えへへ。夕神さんにそう言ってもらえるとうれしいなあ」
「まさか弁護士になってるとは思わなかったけどなァ」
「だって、他に選択肢、思いつかなかったんですもん」
「俺のことなんて忘れていてくれて構わなかったんだぜェ?」
「そうはいかないですよ、貴方がいつも私を守ってくれていたように、私だってあなたを助けたかったんです」

だから、と彼女は続ける。

「夕神さん、私のために貴方が犠牲にした7年間、私が埋められるように頑張りますからね」

もう、貴方に守ってもらうだけのお姫様なんかじゃないんです。

そういうと彼女はまっすぐ夕神にピースを突き付けた。
その向こうには満面の笑みが零れている。もちろん法廷でふてぶてしく彼女が笑う姿を夕神は何度も見てきた。
それでも今ここで、自分に向けられているものはそのために「作られたもの」ではなく、心からのものだと夕神には嫌というほどに分かった。
夕神が彼女を守るために心に蓋をしたその記憶を、取り戻したうえでそれを乗り越えて彼女は笑っている。
やはり彼女はそれだけ強くなり、そして大人になったのだ。
無邪気に微笑む彼女に夕神は目を細める。

(柄じゃねェが)

あの日、あの崩壊した法廷で裁判が開かれなかったとするならば。
きっと今頃自分は三途の川を渡り、地獄へと落ちていたのだとしたら。
彼女が真相を知らずにずっと心の中に澱を抱えたままに生きていかなくてはならなかったのだとしたら。
きっと、彼女のこのような姿を見ることはかなわなかったのだろう。
そして夕神の消えた世界で彼女はきっとこうやって笑うこともなかったのだろう。

(生きててよかった、とでもいうべきなのかもしれねえなァ)

この7年間の黙秘も、苦しみも迷いも悩みも恐怖も。
全てが今のためにあるのだとすれば。

そう思えてしまう自分に気づき、思わず口角を持ち上げてしまった夕神に心音は不思議そうに首を傾げた。
そして前髪に隠れた夕神の顔を覗き込むと悪戯っぽく笑った。

「夕神さん?もしかして笑ってます?」
「気のせいだ」
「異議あり!絶対笑ってますよ」
「笑ってねェ!」
「笑ってますって!前髪で隠しているつもりかもしれませんが私には丸見えですよ」

ほら、そう彼女が夕神の長い前髪をあげようとした手を夕神は咄嗟につかんだ。
心音はガラスのような透き通った両目を驚いたように見開き、夕神を見つめている。
夕神も夕神で彼女に手が届いたことに驚いていた。今まで、決して届かなかったものだ。ただ遠くから、祈るだけでしか彼女の人生に関わることはできなかった。
だけど、今は違うのだ。
彼女のために手を伸ばすことができる。この手が届く。この腕で護ることだってできる。
そして、それはただ弁護士になると決め、無謀かもしれない、間に合わないかもしれない勉強をし続けてきた彼女だって全く同じなのだ。
それならば、そうなのだとしたら。

「なあ、ココネ」
「はい?」
「俺の7年を埋めると言ったな」
「はい!いいましたよ!」

「7年ぶりのシャバだ、わからねえこともたくさんあるだろうよ。そんときは手ェ貸してくんな」

夕神の言葉に、心音は、満面の笑みで「はい、お安いご用です」と力強く答えた。
そして嬉しそうに夕神の腕に力いっぱい抱きつく。
容赦ない力に、夕神は思わずよろめいたがなんとか踏ん張った。
全く、7年前はこんなに力強くなかったくせに。そう毒づきそうになったが、視線をやった先嬉しそうにする彼女にそんな気もすっかりと消え失せてしまった。

「夕神さん、もう離れませんよ」
「ああ、そうかィ」
「だからもう」


夕神さんも、もう何も捨てないでくださいね。


全てを見透かしたように、笑う彼女に、夕神は目をそらしながら呻くように呟いた。


「わかってらァ」




地に落ちた全てを拾い上げて笑う彼女に。
だからこそ今自分はこの世界で息を繋ぐことができるのだと。
その思いに報いなければならないのだとそう思い知るのだ。
もう、何も投げ出さず。ただずっと。


この声はもう、貴方に届く。







material:Sky Ruins