何度も何回でも
出会い、迷い、離別を繰り返してきた中で
それでも変わらないものがあるのだとしたら




『おかえり』はもう二度とこない






重厚な扉を前に成歩堂は立ち竦んでいた。
それはしばらく来ないうちにすっかりと偉くなってしまった幼馴染の部屋の大きさに改めて驚いていたからでもあり、正確には扉を叩いた後、いうべき言葉が思いつかなかったからであった。
嘗ては何の用事がなかったとしても無遠慮に尋ねることだってできていたのに。

(久しぶり、元気だったっていうのもちがうしなあ。司法試験合格したよっていうのも違う気がする。やっぱりまずは謝らなくちゃいけないかな)

今日は復帰して初めての裁判だった。
恐らくすべての検事を束ねる検事局長という立場の彼が成歩堂の復帰の裁判の存在を知らないということはないだろう。
それでも成歩堂はそのことを自分の言葉で彼に伝えたいと思い、少し早起きをして裁判の前に検事局を訪れていた。
だが、彼に一番にかけるべき言葉がどうしても思いつかず、成歩堂は扉をノックできずにいた。
成歩堂は彼に何も伝えなかった。この8年の間何も。そして彼はこの八年間、成歩堂に対して何も言わなかった。言葉はなかった。それでも心配をしてくれていたことには変わりはないだろう。きっと他の誰よりも。
彼は怒っているだろうか。悲しんでいるのだろうか。成歩堂の復帰を喜んでくれるだろうか。まさか成歩堂のことを忘れていることはないだろうが。
伝えなくてはいけない言葉は沢山あるのに、言葉が出てこない。はったりで裁判所を荒らし、弁護士を辞めた後は口先だけで何とか生活を繋いできたというのに。本当に肝心な時には何も出てこないのだから情けない。
成歩堂は中に聞こえないようにそっとため息を吐いた。

(仕方ない、裁判が終わったらもう一回来るか)

頭をかきながら成歩堂は裁判資料がいっぱいに詰まり、不恰好になっている鞄を手に取る。
そして、踵を返そうとした。と、その時だった。

「私の部屋の前で何をしているのだろうか」

後ろから聞こえてきた懐かしい声。それに成歩堂は恐る恐る振り返る。
と、そこには見知った男が立っていた。否正確には知っている男から8年分の年を重ねた男がそこにはいた。そしてそれはまごうことなく、成歩堂が今日わざわざ検事局まで足を運び話をしたいと切望した人物だった。
成歩堂の記憶に焼付いたままの赤いスーツに、灰色の髪。鋭い眼光。
御剣怜侍検事局長。その人が朝日が差し込む廊下に佇んでいた。
8年前と違うところと言えば最年少で検事局長になったと言われても信じてしまうくらいに堂々とした風格を醸しているところと、彼の父親がかつてかけていた眼鏡をかけていることくらいだろうか。
すっかりと幼なさが消え精悍な顔つきとなった大人の御剣はかつてと同じように腕を組み、成歩堂を見据えている。
何か言わなくてはいけない、そう思うがやはり言葉が出てこず、成歩堂は苦笑した。

「局長室は部外者は立ち入り禁止なのだがな」
「あ…」
「後で刑事どもにキツク灸を据えるとしよう」
「あのさ、御剣」
「ム」

御剣は言葉に詰まり動けない成歩堂を無視し、つかつかと成歩堂の前まで歩み寄ってくる。そして目の前で立ち止まると眉間に深く皺を寄せた。
何だろうかと成歩堂が思うよりも早く、御剣の手が成歩堂の襟元に伸びた。そして乱暴に成歩堂の襟を、正確に言えば弁護士バッチが止まっている場所を掴み、そこに顔を寄せた。
成歩堂は思わぬ力に前につんのめりそうになるが、まだなじまない革靴に力を入れてなんとか踏みとどまる。
御剣はそんなことを気にした様子もなくしばらく成歩堂の胸に留まっているバッチを、指を顎に当てながら眺めている。
少し角度を変えながら、裏を覗き込むように。
そのたびに彼の前髪がさらりと揺れ、またバッチに反射した金色の光が彼の肌に映った。
それでも成歩堂はまだ言葉を発することができない。へんに緊張しているせいで掌にじんわりと汗をかいてきた。
てっきり恫喝されるかと思っていたのに。予想外すぎる展開に頭が付いて行かない。

「ふむ、確かに弁護士バッチだ。本物だな」
「えっと、御剣」
「しかし、真新しい。傷も一つないな」

御剣の細くて長い節だった指がゆっくりとバッチの表面を撫でる。
そして御剣は顔をあげると成歩堂に対してゆっくりと口角を持ち上げた。

「なあ、新米の成歩堂弁護士」

8年前と全く変わらない御剣の笑顔。
その表情に、いままで緊張していた成歩堂は肩の力が抜けるのを実感する。
今にもへたり込んでしまいそうになる足を何とか叱咤していると、彼はそんな自分を見ながら楽しそうに眼鏡の奥の目を細めた。

「待ちくたびれたではないか」
「悪かったよ」
「まったくだ」

御剣はバッチから手を離すと成歩堂の足元に転がっている鞄を取り、成歩堂の方に差し出した。
成歩堂はその鞄を受け取る。ずっしりとした重みが伝わってくる。

「茶でも飲んでいくかと言いたいところだが君のことだ。緊張するだろうから早めに裁判所に行きたまえ」

今日は君の復帰戦だっただろう?御剣はそう不敵に笑う。

「流石だな」
「部下が当たる事件と担当弁護士くらい把握しておくのが局長たる私の職務だ」
「恐れ入るよ」
「立場上、キミに勝てとは言えないがキミのハッタリがまた見れると思うと楽しみだ」
「ご期待に沿えるよう、頑張るよ」
「そうしてもらいたい」

じゃあまた、成歩堂がそういうと御剣は強く頷いた。
それに力をもらったような気になる。
やれやれ、さっきまで一言も言えずに呆然として癖に全く現金だ。
これまでの8年はこれから徐々に埋めていけばいい。それこそ言葉を尽くして。
またやっと繋がれた。それも御剣のおかげというところが癪というか情けないとしか言えないが。

検事局に来るときはどうもおぼつかなかった足取りに力が戻ったことを感じながら成歩堂は御剣の横を通り抜ける。
とその瞬間だった。

「ああ、そうだ成歩堂」
「ん」


「おかえり」


そう、眼鏡の奥の目を細め照れたように微笑むと御剣は右手をまっすぐに成歩堂に差し出した。
その姿に成歩堂は大きく目を見開く。そして無性に胸が熱くなるのを感じた。

8年前。沢山の苦労と悲しみを背負うこととなった。
その辛さを、自分だけ背負った気になっていた。
しかしきっとそれと同じだけのものを彼も背負って、それでもただこの場所で成歩堂のことをも待ってくれていたのだ。
もしかしたら、中央に行ける機会だって話だって彼にはあったのかもしれない。
沢山の部下や仲間に囲まれ、信頼できる相手も多くいるのだろう、それでも成歩堂とともにまた法廷で戦える日を、ずっと。
また、僕はキミの相棒だとそう思ってもいいのだろうか。
闇に剣を突き刺し、それを振り払い共に進む相手として、キミの隣を歩んでもいいのだろうか。
キミにかける言葉一つ見つけられない自分だけれど。
否、歩みたいのだ。8年前に共にあったあのころのように。
もう二度と彼のことを裏切ることもせずに。
そして今度こそその手を離さない。絶対に。

成歩堂は慌ててスラックスで手を拭くと、手を伸ばし御剣の手を掴む。強く強く。
そしてこぼれそうになる涙を押しとどめながら、笑う。



「ただいま」



願わくば「さよなら」も「おかえり」も「ただいま」すらも
お互い二度と言葉にすることがないように。
もう間違えない。
きっと、それはお互いに。
そう、再出発の朝に誓うのだった。





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