にゃーん。
か細い鳴き声に、成歩堂が勢いよく振り返った。かたん、とランドセルの中の教科書が跳ねる。
御剣が慌てて成歩堂の視線の先を追う。すれば先日の大雨で増水した川にかかる橋の脚を支えるコンクリートの部分に一匹の猫がいるのが目に入った。
猫だ、そう御剣が思った瞬間、御剣の目の前には黒いランドセルが押しつけられた。思わず受け取り、なんだろうと思うより速く、目の前の成歩堂が靴を脱ぎ棄てるのが目に入った。

「御剣、僕のランドセル持ってて」
「構わないが、何をするつもりだ」
「あの橋のところにいる猫が見える?きっと昨日の雨のせいで取り残されちゃったんだ。あの猫を助けてくる」
「まて、今こんなところに入ったら溺れてしまうぞ」
「でも、あの猫を放ってなんて置けない、そう思わない?」
「思うが…」
「じゃあ決まりだよ、御剣。助けてくるからここで待っていて」

そう言い残すと成歩堂は川の中に入っていった。尖った髪が水の中を進んでいくのを御剣はただ成歩堂のランドセルを抱きしめながら見つめていることしかできなかった。






いまもむかしも







既に日が落ちて久しい、真夜中の時間だった。
数時間前に入れたコーヒーは既に冷めていた。それでも御剣は思考回路が鈍りそうになるたびに濃い目に入れたコーヒーで覚醒を促す作業を繰り返す。
今、御剣の目の前には明日の裁判の資料が拡げられていた。
金銭関係のもつれから犯行に及んだ被告と、被害者というわかりやすい事件だった。
そこまで難しい裁判ではなかったし、今回は捜査に自分でも出向き証拠を確認している。あの人情にだけ厚い刑事の集めた証言や証拠の裏もしっかり取っている、被告人の有罪はほぼ確定している裁判だった。
よもや負けることはないだろうと思っていたが、しかし念には念を入れておかねばならない。
裁判と言えば連戦連勝だった時代はこんなことなんてしなかったなと御剣は苦笑する。

マグカップが空になり、明日の裁判の資料の確認も終了し、そろそろ寝ようかと腰を上げたところだった。
机の上においていた携帯電話が鈍く振動した。静かな部屋に突然響いた音に御剣は思わず御剣は眉を顰め、壁にかかっている時計を確認する。時計は短針は1を、長針は5を指している。つまり時刻は夜の25時25分。
こんな時間に誰だ、何か緊急で事件でも起きたのだろうか、それともうっかりした糸鋸が誰かと間違えて電話を発信したのだろうかと御剣は毒づきながら振動を続ける携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押す。そして耳に端末を押し当てた。

「御剣だが」
『あ、御剣?久しぶり』

聞こえてきた大きな声に御剣は思わず耳から携帯電話を離す。
そしてため息を一つつくと、通話音量を少し下げてからもう一度端末を耳に当てた。

「…成歩堂か。なんなのだこんな時間に」
『ああ、そっちは真夜中なのか、ごめん。起こしちゃったかな』
「起きていたから構わん、何の用だ」
『いや、携帯に着信が入っているのに気が付いたからさ。珍しいなって』
「着信?」

御剣は鈍った頭で記憶をたどる。
今日一日の出来事を思い出すが、しかし今日は現場で捜査をしていたし、夜は食事に出たため、成歩堂に電話を掛けることなどしていない。
寧ろよっぽどの用事がない限り御剣は成歩堂に連絡をしない。
御剣は怪訝に思いながら順番に昨日一日、一昨日と記憶をたどっていく。
そして三日前程の行動を思い返す中でやっと、一つの可能性にたどり着いた。

「確か数日前のことだったように思うが」
『うん、だからやっと連絡できる場所に戻ってこれたというか』
「…イギリスに行っていたのではなかったか」
『そうだよ?』

話すと長くなるんだと成歩堂は苦笑する。
御剣はその言葉にそうか、とだけ返す。
弁護士協会の出張に行ったはずだが言葉の感じからすればそれだけでは済まなかったのだろうことが伺いしれたため、御剣はそこで言葉を噤んだ。

『それで、何か用だったの』
「ああ、成歩堂と真宵くんと連絡が取れないと、ありとあらゆる人物から問い合わせが来てだな」
『なるほど、そういうことか』
「そして極めつけに真宵くんに連絡がつかないと、春美くんに泣き付かれてしかたなく連絡をしたのだ」

御剣は自室のベッドの上に視線を向ける。
そこにはあどけない顔をした少女が羽毛布団に埋もれて眠っていた。すやすやと。
春美が検事局を訪ねてきたのは三日前程のことになるだろうか。いつも真宵と成歩堂の後ろでにこにこして御剣を見上げていた少女は顔面蒼白で御剣の前に現れた。半べそをかきながら。
真宵さまが帰ってくるって言った飛行機に乗っていらっしゃらなかったのです。だから心配になって電話をしたんですけどケンガイで出てくださらなくて。みつるぎ検事さん、私どうしていいかわかりません。
そういうと、今までこらえていたのだろう、大粒の涙がその双眸から零れ落ちた。涙で頬を濡らし、しゃくりあげてなく春美の姿を見て、御剣はかつての自分を思い出した。父親という絶対的な支えを失い、闇に迷い込んでしまった自分を。真っ暗な世界で泣きじゃくってばかりいた自分を。
気付いた時には春美を自分の執務室の中に招き、真宵が帰ってくるまで御剣のマンションに泊まっていいと口走っていた。
そしてその際、苛立ち紛れに、真宵をまた面倒事に巻き込んだであろう成歩堂に電話をかけたのだった。たっぷりの嫌味をぶつけてやろうと。
しかし、成歩堂は出なかった。もちろん、真宵も。
弁護士協会に連絡をとっても、のれんに腕押し。
日に日に憔悴し、どうやったらイギリスに行けるかと真剣な表情で尋ねる春美を見かねて、御剣はここ数日は定時に検事局を出て彼女を構ってやっていた。
そのおかげで御剣は彼女が就寝してから仕事を片付ける羽目になり、ここ数日は寝不足が続いていた。
鈍く痛む頭を押さえながら御剣は続ける。

「彼女は、真宵くんしか頼れる人がいないのだ、あまり厄介なことに巻き込んでやるな」
『それに関しては返す言葉がないな、了解しました』
「真宵くんは無事なんだろうな」
『いろいろあったけど無事だよ』
「それならいい」
『ねえ御剣』
「ム?」
『御剣は、僕のことは心配してくれないんだな』

拗ねたような成歩堂の言葉に御剣は一瞬、言葉を失い、そして笑った。

「当然だ、キミはピンチ体質だからな」
『真宵ちゃんと同じこと言うんだね』
「しかし、どんな困難な状況に置かれても必ずその困難を乗り越え、帰ってくる男だということも知っている」

御剣の言葉に、電話の向こうで成歩堂が小さく息を飲むのがわかった。きっと目の前にいたら酷く驚いた顔をしている成歩堂が見れたに違いない。
そんな成歩堂の表情を想像し、御剣はそっと笑みをこぼす。そして絶対にこんな言葉は面と向かって言えないだろうとも思う。
電話というツールがそうさせるのか、それとも深夜の魔力か。疲労が御剣の精神を緩ませたのか、認めたくはないが彼と連絡が取れなかったことが少なからず御剣を不安にさせていたのかは判然としなかったが、まあたまにはいいだろうと思う。
電話の向こうで慌ただしく成歩堂が紙をめくる音がする。そして、あ、あったと小さく呟いた。

『明後日17時に到着する飛行機で帰るから』
「承知した、春美くんには伝えておこう」

「法廷で待っている」

成歩堂の反応を聞く前に御剣は携帯電話の終話キーを押し、通話を打ち切った。
そして椅子の背もたれにゆっくりと体重をかけ、目を閉じる。
瞼の裏には見慣れた青い男の姿が浮かぶ。
いつも必死で、そして余裕のない男の姿が。
きっと今回も彼は、自分の知らないところで危険に巻き込まれ、そして誰かを助けたのだろう。
彼の声を聴けば分かる、人に心配をかけただろうことよりも彼の声には何かをやりきったときの充実感に満ちていた。

昔からそうだ、身勝手で、自己犠牲的で。他人を頼るのではなく、すべて自分で抱えて。
自分の実力を把握してその範囲でことが収まるように計画してから動く御剣と正反対に、思ったとおりに感情や衝動のままに行動を起こして。
自分の正しいと信じたことに対しては妥協をしない、親友でライバルで相棒のその男を。
昔からずっと御剣はどうしようもなく、信用していた。

きっと彼は誇らしげにイギリスの出来事を語るのだろう。御剣にかけた迷惑などを全く気にした様子も見せずに。
それを自分はきっと憎らしくも、誇りに思うのだ。あの日、御剣の心配をよそに勝手に川に飛び込み、何度も流されそうになりながらも猫を連れ帰った成歩堂を迎えたときと同じように。
だから、いつだって自分は。


(早く帰ってこい)


誇らしげに笑う彼を待つ場所でありたいとそう思うのだ。
今までも、これからも。ずっと。




++++++++++++++++++++++
レイ逆時間軸を妄想。
取りあえず春美ちゃんはパニックだったんではないかと…。


material:Sky Ruins