伸ばした手は、空を切った。

暗闇の中僕は走っている、それこそ全力で。
短い脚と、容量の少ない肺機能が、歯がゆかった。もっと、一歩を大きく。もっと呼吸を深く。
苦しくて、息が止まってしまいそうな錯覚、しかし止まることは許されない。止まってしまったら最後、もう追いつけないことを僕は知っていた。
そして扉が閉まってしまうことを「知っていた」

叩いても叩いても開かない重い扉。叫んでも叫んでも届かない分厚い扉。
それが眼前で閉まってしまうことを。

視線の先にいるのは一人の少年だった。
少年は、何かに引っ張られるようにして進んでいく。それを正しい道だと信じて。
しかし僕はその先にあるものが「何か良くないもの」であることを知っている。
そして同時に、そこ以外で彼が生きていけないこともしっかりと分かっているのだ。
それでも、なぜか無性に、彼を行かせてはいけないと感じている。
非力さに泣きそうになりながら、自分に何もできないことを知っていながら。

手を伸ばす、しかしそれはどこにも届かない。

と、そこで、少年が振り返る。
そして、その両目が、大きく見開かれる。
透明な、その瞳に、僕は嗄れた喉で叫んでいた。





夜明け






「…………っ!!」

目を覚ました時に一番に目に入ったのは自分の手のひらだった。
虚空に伸ばした右手は、所在無げにただぼんやりとそこにあった。

(夢…か)

成歩堂は腕を下すと、緩慢に体を起こした。
部屋の中にはアルコールの濃い匂いと、雑音が満ちている。
部屋を一通り見渡し、ため息をついた。

(あのまま寝たのか…)

アルコールのせいで動きの鈍いところに、夢の断片が意識に潜り込んでいるせいで、なかなか思考が廻らない。
しかし、部屋の状況から、徐々に昨晩の出来事を思い出していく。
仕事帰り、矢張と安い居酒屋で飲んだ。そして悪酔いをした矢張が、成歩堂の携帯電話を取り上げ、いきなり電話をかけだした。
絶対に来ないだろうと思っていた電話の向こうの人物は、仕事が終わったら合流すると答えたが、既に居酒屋は閉まってしまう時間であったため、自分の家で飲みなおすことにしたのだった。
コンビニで買った安い酒に安いつまみ。そして晩御飯も食べていないという男のために簡単な弁当と総菜まで買った。
確かに相当な量を飲んだようだ。リビングテーブルの上には乗りきらないほどの空き缶が積み上げられている。そして様子を見る限り、酒に飲まれそのまま潰れてしまったようだ。
しかし、そういうことは成歩堂にとって特に珍しいことではない。特に鼾を今書いて眠っている矢張に関して言えばどちらかの家で飲む、となればこのような状況は織り込み済みなところがある。
だが、今日は例外が一人混じっていた。

そう、それが今自分と矢張の間で眠り込んでいる、御剣怜侍その人であった。

(御剣…)

みつるぎれいじ、と成歩堂は小さく口の中で呟いた。
最年少の天才検事、最強の検事。
そんな称号をほしいままにする同い年の男は、矢張と成歩堂にとって小学校の同級生であり、そして学級裁判において無実の罪で裁かれそうになった成歩堂を救った男でもあった。
ある事件で、御剣が自分たちの前から消えてしまうまで、三人はずっと親友だった。
同時に自分が弁護士になる原因を作った男でもあり、新米時代に自分の手で救った男でもあった。
そしてそのあと、自分たちに何も言わず、自殺を仄めかす様な書置きを残して失踪した男でもある。
無愛想で、自信家でプライドが高い。
そして人とのかかわりを極限まで拒絶している節のある男だった。死んだとされたこの一年間の失踪から帰ってくるまでは。

そして、繰り返し成歩堂を苛むあの夢に出てくる少年、それが御剣その人なのである。

当の御剣は、成歩堂と矢張の間で体を丸めて眠りこんでいた。
その姿が窮屈そうに見えるのはただ単に彼の体格が良いだけではなく、普段からきているあのきっちりとした服装のまま、フローリングの上で眠り込んでいるからだった。
流石にあのジャケットは脱いではいたが、ベストも着たまま、シャツも首元までしっかり止まったままで肩は凝らないのだろうか、そう、ぼんやりと思う。

(死んだと思った)

手を伸ばし、アッシュグレーの髪に触れる。
少し痛んでいるようではあったが、柔らかいその髪質が心地よく、すこし撫でてみる。
そのまま、頬に触れた。
そこには確かに生きている人間の温かみがあり、それに成歩堂はどこかほっとした。
と、成歩堂の手の感触に気が付いたのか、御剣が僅かに身じろいだ。

「ム…」
「あ、ごめん御剣起こしちゃった?」

慌てて成歩堂が手をどけると、御剣は薄くその両目を開けた。
御剣はぼんやりと体を起こすと、ソファの上に放ってあった自分のジャケットから携帯電話を取り出した。
青白いディスプレイが、御剣の頬を染める。と、時間を確認しただけだったのだろう、それをあっけなく閉じ、ぼんやりとした視線が成歩堂を捉える。
そこには、自分が彼を救わなくては、と使命感に駆り立てたあの暗い瞳はない。闇に溺れかけたあの瞳は。
ああ、彼は本当に帰ってきたのだ、成歩堂はそう唐突に理解した。

「まだ三時ではないか。君ももう一度寝たまえ」

そういうと御剣は矢張が半分以上持っていってしまったタオルケットを自分のほうに引き寄せ、それにくるまった。
今度は矢張がそこからはみでてしまったが、矢張はよほどよっぱらっていたのだろう、そんなことに気がついたようすもなく、相変わらずうるさい鼾をたてながら寝入っている。
もちろん御剣は成歩堂を小さいタオルケットに入れる気など露ほどもないらしい、成歩堂にあっさりと背中を向けて固いフローリングに寝転んでしまう。

小さいときは、三人でひとつの布団に入ったのになあ。

そんなことを小さく呟くがもう届いていないらしい、御剣は成歩堂の言葉に反応を返すどころか、ピクリとも動かなかった。

成歩堂はため息を一つつくと立ち上がり、寝室からもう一枚布団を持ってくる。そして何となく三人にかかるように真ん中に落とす。
誰かが机を蹴ってしまえば少し残っている酒で布団が汚れるかも知れなかったが、それはその時だった。
自分はあまり掃除に頓着があるほうではないし、この騒がしい飲み会のための場所を提供したのだ、あの二人に洗わせればいい。
それに、アルコールと久しぶりに見た不景気な夢のせいで頭の芯が痛んでいた。最もこんな自堕落な宴会のことを話せばあのお節介な助手たちは「自業自得だよ!」とでも声をそろえて自分を糾弾するのだろうが。

机の上に残っていたグラスの中の水を飲み干すと、御剣の隣に寝そべり、背を向けて眠る男に視線を向けた。
いつも整えられているアッシュグレーの髪はこんな固いフローリングで寝たためか寝癖が付き、変な方向に跳ねているし、アルコールを取りすぎたためだろうか、普段から血色のよくない肌は一層に白い。
御剣がアルコールを多く摂取していることは把握していたが昨日はあの御剣がどこか楽しそうにしていたし、それ以上にあの堅物で怜悧な検事が、自分と矢張とこんな自堕落な飲み会に参加してくれたことがうれしく、確かに飲ませすぎた。
明日も朝から仕事と言っていた。御剣のとてつもない仕事量を思えば少し気の毒に思ったが、二日酔いのために憮然とするだろう御剣を思うとそれも初めてみる彼の人間らしい姿のように思えてなんだか微笑ましく思えた。

規則正しく動く御剣の肩。
そして響く矢張の鼾。
その単調な繰り返しに、夢にささくれ立ち緊張していた成歩堂の精神がゆるゆると落ち着きを取り戻し、凪いで行く。
もう一度眠れそうだ、成歩堂は猫のように丸まっている御剣の背中を視界にとらえながら、ゆっくりと目を閉じる。

と、成歩堂の意識が再び闇に沈む寸前、鈍い音が狭い部屋に響いた。
なんだ、と成歩堂は意識を覚醒させると御剣の右手が成歩堂の目の前に落ちていた。
どうやら寝返りを打ったときに御剣の骨ばった手の甲がフローリングにぶつかった音らしい。
成歩堂は痛んだのではないか、そうおもいなんとなく、落ちてきた御剣の右手を自分の右手で包んだ。

そうずっと、触れたいと、掴みたいと願った手を。

あの学級裁判の日、自分を糾弾する声で満ちた教室の中、一人立ち上がり先生とクラスメイトに突きつけてくれた、右手の人差し指。そして夢の中でいつもつかみ損ねる、その手。
白く、小さく華奢だったはずのその手は、そのときの面影なんてどこにも残していない。今、成歩堂の手の中にあるのは頑強で、しなやかな大人の手だった。
それでもその手は今、この世界の不実を洗いだし、掬い出し、突きつける。
一度は遠回りをした、その結果彼は途方もなく傷つき、そして苦悩した。
それこそ一度死を選ぶ程に。
それでも帰ってきてくれたのだ、矢張とそして自分のもとに。
少し困ったように、でも誇らしげに、または嫌みたっぷりに。

つかまえた。

少年が振り返る。
彼を引っ張っていた力が消える。
すこし、困惑したのだろう、視線を泳がせながらその力の主を彼は探す。
しかし、僕は彼の手をしっかりと握る。それこそもう二度と離さないと言わんばかりに。
彼はぎゅっと眉間にシワを寄せる。
だいじょうぶ。
言葉の代わりによりいっそうの力を込める。今度は両手で。
彼は今度こそ困ったような泣き出しそうな顔を見せる、しかし、そこでやっと表情を緩めた。

みつるぎ。

もう離してなんてやるもんか。
もう二度と暗闇にお前を一人にはしない。俺たちは一蓮托生だ、親友で、ライバルで、そして相棒なのだから。


隣で眠る御剣に小さく微笑み、成歩堂は御剣の手をしっかりと握り直す。
そしてその手を頼りに、もう一度眠りの縁へと落ちていく。


もう、あの夢を見ることはないのだろう。
泣きそうな顔の少年。
自分の心に焼き付いたあの幼い日の刻印は今、自分の隣で不機嫌そうに、それでも誇らしげに笑うキミの姿に変わっていく。



そうそれは。 窓の外で今、ゆっくりとほどけていく夜の帳のように。




もう間もなく、朝がやってくる。














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某アーティストの「少年」という曲がストーカー時代の成歩堂にぴったりなので。笑
(pixivより再掲)

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