譬え自分が何も特別な力を持っていなかったとしても。 貴方のために何かができるのだとしたら、喜んでこの身を差し出そう。 To sacrifice me 殺人事件の捜査を終え検事局に帰る途中、響也はハンドルを切り、バイクの進路を変えた。 それは自分のライバル弁護士が入院をしている病院に向かうためだ。 響也を法廷で苦しめ、それでいて真実を見つけることに対して共に躍起になるその弁護士は先日の法廷の爆破に巻き込まれて大怪我をしてしまったらしいということ、そして、その直前の彼の様子がおかしかったという話を同僚より聞いていたことを思い出したのだ。 爆発があったその日、第四法廷で行われていた裁判は、彼の親友が被害者として、そして彼が慕った人が被告人として序審裁判にかけられていていた。 しかしその事件は結局その爆発の所為で延期となってしまったという話だった。 彼にしてみれば気合をいれて迎えた裁判だっただろう。そこに水を刺されてしまったのだ、きっと彼はもやもやとした感情を抱えているに違いない。味方では決してないとはいえ、たまには励ましてやるのも悪くないだろう。 そんな気持ちで、病院を訪れ、彼の病室に向かった響也は自分の軽はずみな行動を恨む羽目に陥っていた。 扉を開けた瞬間、響也はの目に飛び込んできたのは、彼の体に巻きつけられた包帯でも、彼のトレードマークを覆い隠す青いジャケットでもなかった。 ただ窓辺に佇み、窓の外へと視線を向ける彼の背中。そこに滲んだ悲哀のようなものが響也の胸を打った。端的に言ってしまえば彼のそんな姿に響也は驚き、そして悲しくなってしまったのだった。 それはこんな姿の彼を今まで一度も、響也は見たことがなかったからだった。 「おでこくん」 訪問を告げるために響也は自分の喉の渇きを自覚しながら彼のあだ名を呼ぶ。 しかしそのあとの言葉を響也は続けることができない。大丈夫か。元気を出せ。こんなのは君らしくない。そんなありふれた何の捻りもない言葉しか響也は思いつけなかったからだ。 だが、今の彼に大丈夫、と聞いてはいけないことは響也にはわかっていた。そんな言葉を彼は望んではいないのだから。 (僕の時とは違うんだ) 響也はここに来るまで一年前の自分に降りかかったことを思い出していた。 実の兄とかつての相棒を失った自分のことだ。 自分の憧れで法曹界を目指すきっかけとなった兄と、自分を公私共に支えてくれた刑事。自分を構成する大きな比率を占めていた人物を響也は相次いで失っていた。 その時、自分の胸に開いた喪失感を埋めるために取った方法は、自分の信頼を裏切った彼らに対して徹底的に憎悪の感情を向けることだった。 ただ憎めばいい。自分を裏切った相手を徹底的に恨んで憎んで、そして蔑んでしまえばある程度その感情をやり過ごすことはできてしまう。 きっと法介だって自分の師匠に関する裏切りについては落ち込んで、それでも何か他の感情で折り合いをつけて師匠の裏切りを乗り切ったのだろう。 そのときと同じだと、響也はそう思っていた。 しかし今悲しみに佇む法介を一目見て、彼の前に横たわるこの悲しみは、霧人が自分と彼を失ったときのものとは性質をまったく異にするのだということに改めて気づかされた。 大切なものを永遠に失ってしまった悲しみ。 いくら望んでも、どんな手を尽くしてももう二度と手が届かないもの。他の感情での代替がきかない悲しみだ。 そして不器用な男はその感情を逃がす術を知らないのだ。 あんなに暖かな仲間がいるというのに。きっと頼れる所員であろうと見栄を張って、後輩と少女に心配をかけないようにと。 「俺は、大丈夫です」 窓の外に向かってそう、彼は呟いた。 窓から吹き込む冬の冷たく澄んだ空気が、彼の自慢の髪の毛を透いて行く。陽光が彼を照らし出している。 それでも響也はそれが虚勢なのだと気付いていた。呪文のように、努めて明るく発せられるその言葉に、音楽で培った響也の耳は僅かな揺らぎを聞き取ったからだ。 そして燃えるような赤を、紺色のジャケットで隠した彼の背中が微かに震えていることも。ジャケットから覗く包帯のまかれた腕よりも、その姿が何よりも痛々しく映り、思わず響也は顔を歪めた。 「王泥喜法介は、大丈夫」 何で君はいつも「大丈夫」っていうんだい。 いつかの法廷の後で、何となく飲みに行ったときに響也はずっと気になっていたことを聞いたことがある。 少しアルコールで機嫌がよくなっていた彼は恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに「親友」とのエピソードを響也に語ったのだった。 彼を支え、弱さも強さも全て包み込んでいてくれた彼とのエピソードと、そこで共有された「言葉」のことを。 自分を鼓舞し、友人を励ますために使った言葉。自分を奮い立たせるために繰り返される言葉。ただ自分を前に進めるために用いるフレーズ。 それは彼にとって誇りであったはずだ。しかし今は、同時に彼に深い深い悲しみを想起させる言葉でもあるのだろう。 今の彼の言葉には法廷で発せられる力強い響きも、親友とのエピソードにはにかみながら、それでも嬉しそうに語ってくれた時の幸せそうな色も全く見えなかった。 「俺は・・・」 「・・・おでこくん」 響也は努めて明るい声で発せられる自己暗示のような、それでいて半ば悲痛な叫びのような言葉を聞いていることに堪らなくなり、部屋を横切ると法介の右腕を左腕で強引に引き寄せた。 突然の響也の行動に法介は反応することができず、いきなりの力に体は反転し、響也と向き合うような形になる。しかしそのまま、響也は彼の表情を見ることがないよう、右腕で法介の後頭部を押さえると自分の方へと引き寄せた。 図らずとも響也の胸に飛び込む羽目になった法介は自分の状況に気付くと、響也の腕の中でバタバタと動き出す。 「ちょっと、牙琉検事、いきなりなにするんですか」 「なんだろうね」 「なんだろうねじゃないでしょう、苦しいですよ」 「ははは」 それでも響也は腕の力を緩めない。 こうでもしないとこの意地っ張りで強情な男は素直になれないだと響也は知っている。 見栄を張る必要も、体裁を気にする必要もない存在。そんな存在が今の彼には必要なのだった。 そう、「彼」の代わりに。 そう思うと少し癪ではあるが、それでも今、自分がその役割を放棄することはできない。 響也は右手で彼の形のいい頭蓋を押さえ、顔は自分から見えない状態を保ったまま、努めて優しく微笑む。 「おでこくん、もう何も言わなくていい。僕は何も聞いていないよ」 その言葉に彼が息を飲んだのを感じた。 しかし、それすらも響也は黙殺をする。 何も言わず、何もしないまま、ただ彼を拘束する。 しばらくすると微かに彼が押し殺すようにしゃくりあげる声が聞こえてきた。 何時もの快活で強い彼からはかけ離れた姿に響也は胸がふさがれる思いがした。 安い言葉で慰めることなど簡単だ。簡単すぎる。 それでも響也は背中を叩くこともせず、優しい言葉をかけるでもなくただ、じっと彼の悲しみを受け止めていた。 熱を持った呼気と、雫が次々と響也の胸に落ちる。 (本当に罪な男だなあ) 響也は法介に聞こえないようにそっとため息を吐いた。そして窓の外に視線を向ける。 寒くはなったが残酷なまでに晴れた世界。 高く青い空に輝く、この世界に熱を齎す光源。 たった一人の死は、響也が目を細めながら見つめていたあの太陽のような男をこんなふうにしてしまった。 まるで暗雲のように、彼を襲った悲しみはこの世界に横たわっている。 それを、響也は憎まずにはいられなかった。 彼を支え、前へと進ませたその男は、あっさりとこの世界から消えてしまった。代替品すら残さずに。 乗り越えるべき強大な悲しみだけを残して。 そして響也はその隙間に滑り込むことも、代わりになることもかなわないのだろう。 だったら、今自分にできることはたった一つだ。 せめて彼の吐き出す悲しみを受け止められる唯一の場所とならんことを。 (彼がこの悲しみを乗り越えられるその時まで) 何時ものように自信満々に、それでいて狼狽えながらも足掻くその姿を、依頼人のために懸命になれる眩しい姿に戻れる日が来るまで、せめて悲しみの海の中でもがく彼の隣を共に歩めたらとそう思うのだ。 (忘れないで、おでこくん。キミの味方はここに居るから) 悲しみの向こうでキミが笑えるその日まで。 非力なこの身のすべてをかけて。 material:Sky Ruins |