「正義とは被告人を有罪にすることだ」
師匠はそういった。
「正義とは弱い人を助けることだ」
父はそういった。






蝶の落ちる音






穏やかな午後の昼下がりだった。
御剣は狭い部屋の中で、椅子に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。
検事局にいるときは、毎日何かしらの仕事に忙殺されていたのに関わらず、今の御剣にはやるべきことも何もない。
ただ、異国の風が吹き込むこの場所で、御剣は時間を浪費していた。
法律書はいくつか持ってきてはいたがほとんど開いたことはなく、部屋の隅で少し埃が被っている。
本当は捨ててしまうつもりだった、というのも御剣は検事をやめたいとあの国を離れたつもりだったからだが、しかしその踏ん切りすらつけられないでいるのも同時に事実だった。
否、本当は検事を辞めたくないとは思っている、しかし歩き出せない。
それはただ、自分の検事のあり方を決めきれないでいることに起因している。

目を閉じれば闇に捕らわれる。
そしてそこでは延々と問答が繰り広げられる。
師匠が、父が。繰り返し御剣に正義を問いかける。
足元が崩れるようなその感覚の中で、暗闇を落下しながら御剣は回転しない頭でその意味を、回答を紡ごうとする。
しかし、今まで「思考」というものを放棄していた御剣にはなかなかそれは難しい作業だった。
圧倒的な失望感と、喪失感。そこから派生する憎しみだけで自分は検事になった。
検事になってからは狩魔豪の言葉だけに盲信し、ひたすらに歩みを進めてきた。
立ち止まることなんてなかった、今まで一度も。
しかし、あの二つの事件で、完全に御剣は歩みを進めることができなくなってしまった。
正義とは何か。自分の行動の原理は何か。その答えを御剣はひたすら追い求めている。

(いや、違う)

本当はわかっていた。
正義とは真実を見つけること。あの木槌が振り下ろされた瞬間、ふと御剣は腑に落ちた。
自分の過去の真実が暴かれた瞬間。そして検事局に巣食った悪を暴いた瞬間。
自分は笑っていた。そして、宝月姉妹も笑っていた。
勝つだけでも、助けるだけでもダメなのだとあの瞬間思い知った。
そして今までの自分の在り方を恥じたために自分はここまで逃げてきたのだ。
法廷は。
依頼人をただ無罪にするためでもなく。
検察の権威を守るためでもなく。
真実を紡ぐ場所として存在しているのだと。

(しかし、どうすればいいのだ)

十五年前。
ずっと御剣もあの事件を追いかけていた。
しかし司法の闇を使われた事件は御剣の遥か遠い場所にあり、手が届かなかった。
二年前。
与えられた証拠で有罪を勝ち取った、それが捏造されたものだとも知らずに。
上層部の用意した証拠だということに胡坐をかき、言いなりになって、勝てばいいのだと自分はその根拠を精査することもなかった。
この先、同じような状況におかれることもあるかもしれない。
そのようなとき、自分は自分の正義を貫くことができるのだろうか。
レールのない場所で。
たった、ひとりで。
無力感から狩魔や、局長がやってきたのと同じように自分は悪に手を染めるのではないだろうか。
それを御剣は言いようもなく恐れていた。

と、そのときだった。
窓から風が吹き込みその風は白いカーテンを膨らませた。
そして、同時に雑然とした机の上にあった紙をも吹き飛ばした。
拾わなければならない、そう思考するが御剣の体は動作を拒否しており、しかたなく、そこから床に舞う白い紙を目で追うだけにとどめる。
床に積もっていく、過去の書類。
と、その中に色彩があるものが混じっていることに御剣は気付く。
目を細め見やれば、それはひょうたん湖とDL-6号事件を解決し、自分に無罪判決が下った後、とった写真だった。
そこに写っていたのは、あの事件を共に解決に導いた…。

落下していく中でふと目の前に一つの手が差し出された。
見覚えのある手。暖かく揺るぎないその力。

「御剣検事」

そしてその男の後ろには多くの捜査官の顔が見える。ずっと自分をここまでささえ続けてくれた部下達だった。

「みつるぎ検事」

次に差し出されたのは小さく、冷たい手だった。
人懐っこい、少女だった。
そして何が起きたとしても常に前向きで、犯罪にたいして真摯に向き合っている。
それでいて人情味があり、自分が被告人として捕らえられたときは彼女なりに精一杯、DL-6号事件の解決に奔走してくれていた。

(ああ、自分は一人ではないのだ)

そして。
自分とともに戦ってくれる人がもう一人。

「御剣」

お節介なまでに自分の心に土足で踏み込んできて。
忘れていたこの傷を全部暴いて。
それでもしっかりと真実を見つけてくれた。
依頼人の意向すらも軽く無視するようなそのすがたはただ依頼人を完全に救うという彼の主義なのかもしれないが、しかしその実真実をしっかりと見つけ出す。
あんながむしゃらに、はったりで武装して。
彼がその事に気がついているのかははなはだ疑問だったが、しかしそれも一つの正義なのだ。

そして、それを自分は彼と、あの場所で紡いだ。

一人で見つけることなどできなかった。
だがしかし、彼となら。
師匠が弁護士を憎み、父が検事を信じなかったのとまた違う形で関わることを望んでくれるだろう彼となら。

(私は彼を信じているのかもしれないな)

皮肉ではあるけれど。
それが正しいことなのかはわからないけれど。
それでも。

彼の手が、自分に届く。
その瞬間、暗闇から意識が浮上した。
見上げればそこにあるのは青い空。
彼の、色。

「御剣」

彼が笑う。
揺るぎない力は確かに御剣をとらえて離さない。
そしてその力はきっと、自分が道に迷いそうになったとき、正しい道に導いてくれる、そうなぜか自分は確信していた。

(もう間違えない)

いつか。
自分は法や犯罪の強大な闇に飲まれそうになることがあるのかもしれない。
それでも、自分を支えてくれる人があの場所にいる限り、戦うことはできるだろう。
それが最大限の御剣から大切な仲間たちへの「信頼」の証なのだから。

立ち上がり、床に落ちた写真を拾い上げる。
そこに映る遠い地にいる友人たちに御剣は笑いかけるとそれを胸ポケットにしまった。

帰ろう、あの場所へ。
自分の始まりの地へ。


亡きものの言葉などもう、必要ない。












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御剣は一人でもう一回立ち上がったので凄い人だなあと思います。 御剣って成歩堂の100倍くらい男前。
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