間違えた夜






『そんな目で見ないでくれ…』

夜半の、事務所だった。
気密性も良くないうえに、裁判に出ずっぱりで事務所に帰ってなかったせいもあり、事務所の中は酷く寒かった。
それでも気分が高揚していたのは、お祝いだといって酒を飲んだからと、手の中にずっと求めていた体温があったからに他ならない。
飲みなおそう、そういって強引に連れだしてきたのは、先日の裁判で自分が闇から救い出した、青年だった。

御剣は、外からさす月の光の中で成歩堂を見上げていた。
冷たい床に縫い付けられている御剣の手は、乱れた着衣の下の白い肌は、みるみると色を失っていく。
寒いのだろう、と思うと同時に彼が恐怖しているのが見て取れた。否、恐怖ではなく失望だったかもしれない。
成歩堂は始めはあの御剣を組み敷いているという事実に、気分が高揚しているのを感じていた。
自分をかつて救ってくれた人。
自分が救った人。
15年の隔絶と4年の葛藤の先にやっと手が届いたその人。
その人を自分のそばへとつれてくることができたことが酷く嬉しく、否隣にいることが何よりも嬉しくそしてそのままに行為に雪崩れ込んだ。
しかし、ふと彼の双眸を覗き込んだときさっと身体から熱が抜けるようなそんな錯覚に苛まれた。
冷たい月光のしたで照らされた御剣の双眸は、熱に浮かされているわけでもなく、ただ静かな湖面のようにすべてを暴くようにそこにあった。

それは、成歩堂の心の内をすべて見透かすように。

その瞬間、成歩堂の心の中に何かが深く沈んだ。そして成歩堂の肺でも圧迫するように、重く圧し掛かってくる。
おもむろに成歩堂は御剣に手を伸ばす。
月光が成歩堂の手の甲に落ち、暗い闇を作り出す。その闇はじわじわと御剣を侵食していく。
両手の作り出す闇が御剣の双眸をのみ込んだとき、成歩堂はそのまま手を下ろしその双眸を覆ってしまった。
視界を奪われた彼は一瞬だけ、息を吐いた。
暗闇に閉じこめられた彼は何を思ったのだろうか。ただ困ったように、否いつものように眉間に皺を寄せているだけだった。

そう、その胸に成歩堂の熱い涙が注がれていても。

(御剣…)

成歩堂は弁護士事務所のソファーの上で、あの夜のことをおもいだしていた。
なぜこんなことを考えているのか、それは今日の昼に目にした一通の書き置きに起因している。
彼が懇意にしていた刑事に電話で呼び出されたのは彼の執務室だった。
きれいに整頓された机の上においてあった一通の書き置き。

“検事 御剣怜侍は死を選ぶ”

その流麗な文字を見たとき、成歩堂はようやくあの夜から自分の胸を塞ぎ続けてきたものの正体に気がついた。
認めたくなかった、それでもそれは確かに事実だった。
成歩堂は御剣を完全な意味で救うことができていなかったということを。

今思えば。
あの日彼は立っていることすらつらかったはずだった。
彼のアイデンティティも生き方も、キャリアも自分はすべて崩壊させた。
彼を救う、そんな大義名分を掲げて、御剣怜侍を構成していたすべてのパーツを崩した。
そのうえ、そんな彼に対し、成歩堂は自分の積年の思いをぶつけるような行為に走った。
彼を悪夢から解放した。
彼を長年蝕んだ罪から解放した。
そう自己陶酔をして、自分の汚い感情をすべて彼にぶつけた。
あれが自己満足以外の何物ではないということに全部、蓋をして。見て見ぬふりをして。
だから、自分は耐えきれなかったのだろう。
彼が冷静だったから、ではない。
あの闇を映す御剣の瞳ではなく、澄んだ双眸の中に映る自分が酷く醜く歪んで見えたことが。
自分は間違っていない。正しいことをしたのだとそう思いたかった、だから。

あの美しい目を、塞いでしまった。

(正しさとはなんだろう・・・)

次の日成歩堂が目を覚ますと、御剣は成歩堂の隣で寝ているなんてことはなく、テレビの前で紅茶を飲んでいた。
御剣が見ていたのは子供だましの、特撮番組だった。
表情を窺い知ることはもちろんできない、それでも彼がどこか真剣にその番組を見ていることはわかった。
子供だましだ、しかしそこには子供番組らしい完全さが確かに存在している。
勧善懲悪。
完全な正義がそこにはある。
完全な正義。
その瞬間に、無性に成歩堂は胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。
自分は、依頼人への信頼にこたえるために必死になって戦ってきたつもりだった。
それを正義だとそう思っていた。
だけど今回はどうだったのだろうか。それだけだったと断言できただろうか。

彼をこの腕の中という牢獄に閉じこめて。
そのために、手を伸ばしたのではなかっただろうか。
そして、真実を追求したい、その自己満足のために彼のアイデンティティを崩壊させたのではなかっただろうか。

(難しいよ御剣・・・)

隣に手を伸ばす。しかしそこにあるのは空白だった。当たり前だ、彼がここに居たことなど一度もない。
せめて懺悔をさせてほしい。
そう思うが、既に彼はここにはいない。 もっと言えばこの世界のどこかにいるかすらもわからない。
むしろこの世界にいるかすらわからない。
わかりきっている、それでもそのことに成歩堂は打ちのめされている。

(ねえ御剣・・・)

君は傷付いたのだろうか。
それでも、今自分が弁護士として、法廷で闘えているのはあの夜があったからだということ成歩堂は嫌というほど知っている。
人を救うことの重さを。
正義の意味を。

(僕は君を犠牲にして、こうやって立っている)

助けるつもりだった。
その気持ちに嘘はない。
それなのに、結局また僕ばっかりが救われてしまった。
そんな僕を見て君は笑うのだろうか、また困ったように眉根を寄せるのだろうか。
どっちでも構わない、それでも、どうしてももう一度。
それを傲慢だと笑われたとしても、それでも僕は。


(君を、今度は本当の意味で、助けたいんだ)


まぶたの裏には、正義を渇望する青年の残像が焼き付いて離れない。












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