「なあ、人間ってのは愚かな生き物だな」 縁側に座り酒を啜っていた男が徐に呟いた。 その頑強な体躯にはところどころ、包帯が巻かれている、が、傷はそう深くはなさそうである。 包容力のある笑みは、苛立たしいが、それでいて懐かしいと元就は思う。 春も暮れ、桜の次に咲いた花もそろそろ散り、庭に絨毯を敷いている。 桜より、濃いその色の花弁は、月光の下でその色一層に引き立たせ、美しく光っていた。 前会ったのは、桜が咲く前だったな、そう、男は呟いた、それに、もうそんなに経ったか、そう返す。 元就は室を横切り縁側へと出た。 夜風はまだ冷たく、夏はまだ遠い。 隣へと座った元就に、深い色をした隻眼を細め、男はゆったりと笑った。 そうして、盃に残っていた琥珀の液体を一気に流し込んだ。 ふと、薫る酒の香。 かたん、と杯を縁側に下ろすと、男は話を続けた。 「何もかも手に入れたいって思うくせによ、失ってからじゃねえと、本当に大切なものに気付けねえんだぜ」 「言い古された、言葉であろう、今更、だな」 「言い古されるほど、繰り返し歴史上に起こる事象ってことだろう、わかってはいる、だが、自分に限って、自分の仲間に限って、そう思うんだろう」 「下らぬ、駒に情をかける貴様らしい考えだな、愚かな男よ」 元就の言葉に男は肩をすくめ、小さく笑った。 その低い声は静かに庭に響く。 耳触りのいいその音だが、元就にはそれが嘲笑のように聞こえ、眉をしかめた。 何よりも仲間を重んじる男にとってみれば、部下を蔑ろにするような元就の存在は蔑むべき、そして同情を寄せるべき相手なのだろう。 何度か責めるような言葉を浴びせられたこともあり、元就はその手の話になると自然に眉間に皺が寄る。 しかし、元就の様子を気にした風もなく、悠然と、男は空を仰ぎ、そして続ける。 「個人的観点じゃねえよ、元就、人間てのはそういう風にできてるんだ」 「我に何を言いたいのだ貴様」 「お前にとってどうでもいい人物が死んだその時、初めて気づいて後悔してもおせえんだってことだ」 視線を戻し、にやにやと、意地悪な下品な笑みを浮かべる男に、元就はため息を吐いた。 「下らぬ、自意識過剰もいい加減にするがいい」 「自意識過剰、はたしてそうかね」 「試してやろうか、長曾我部」 勢いよく、頸を掴み、そのまま床に押し付ける。 体格差はあるとはいえ、元就も仮にも鍛えている身だった、勢いと、相手の少しの油断を突けば出来ない芸当でもない。 ごつ、という、骨と木の板がぶつかる鈍い音がした。 一瞬痛みに顔をしかめる男を見下ろし、元就は懐に手を入れ、流れるような動きで懐から懐刀を抜き、喉元に押し付ける。 皮一枚で止まったそれに、怖じた様子もなく、隻眼を細め男は低く笑った。 一筋、赤い筋が野太い首を這った。 「は、本気じゃねえくせによう」 「我は本気ぞ」 「馬鹿言え、それに舐めてもらっちゃ困る、殺気くらい察知するぜ俺はよ」 男が笑みを深くかたどった、そう思った瞬間、腕を強く捻られる。 思わず手から離れた懐刀は弾かれ、少し離れたところへと滑り、からからと乾いた音を立てた。 得意げに見上げてきた男に元就は、蔑むように笑みを落とした。 次いで逆の手で、強く抱き寄せられる。 厚い胸板に強く押し付けられる形になり、衝撃で元就は僅かに呻いた。 同時に鼻孔に薫る潮の薫り。 男は太い腕でしっかりと抱き寄せ、拘束される。 大人しく腕の中に収まった元就に暫く男は楽しそうに笑い、それに合わせて胸板が上下する。 触れた部分からじんわりと伝わる男の熱。 隆々とした筋肉質の体、太く逞しい腕、厚い胸板。 久しぶりに感じる、長曾我部元親という存在に、その命に、その中を流れる血潮に。 元就は思わず、口角を持ち上げる。 暫くそうしたあと、ひたとその笑い声は止み、再び静寂が満ちた。 そして込められる力が上がり、今まで以上にぴったりと抱き寄せられる。 どうしたのかと身じろぎ表情を窺おうとするが、男は元就の首筋にその銀の髪を埋めており、表情を窺うのは敵わなかった。 「どうした、長曾我部」 「元就」 「・・・なんだ」 「元就、お前もそうかもしれねえな」 「・・・」 「お前も、気付かねえんだろうな、きっとよ」 きっと・・・。 諦めたように、悲しむように嘆くように、鬼はそう呟くと、元就にその意を問うことすら許さずに、ただじっと、鬼の言葉に怪訝そうな表情を浮かべる智将を、抱きしめていた。 残酷な男だった。 自分の好き勝手に振舞い、好き勝手なことばかり、言った。 沢山のものを齎し、そして残していった。 多くは、なるほど確かに有用で、利益のあるものであった。 しかし、幾つか、どうしようもなく、無益なものも残して逝ったのだった。 そう、例えば。 止めを 刺 す あの時、喉を掻き切っておけば良かったと、元就は海を見つめながら思った。 陽光が水面に乱反射し、そこだけ明るく白く光っている。 ゆらゆらと揺れる水面は、日輪の姿を水面にとどめることもしない。 風に、纏わりつくように薫る潮。 それらを見下ろす小高い崖の上から、元就はただ海を見つめていた。 広大な海を見て心に兆すのは解放感ではなく、空虚感である。 かつて見た海はここまで空虚であったかと言われれば否。 そして兆した空虚感の源もわからぬまま、元就は途方に暮れていた。 よく、元就に情について説こうとし、孤独を紛らわせようとした男はもういない。 あんなに纏わりつくように心に土足で踏み込んでおいて、あの男はあっさりと遠くへ消えてしまった。 死に際を目にした訳ではない、ましてその、亡骸を目にしてもいない。 首級を上げられぬように、そしてあの男が焦がれた外海を見る目を残すように、海へと帰ったという噂を聞いた。 故に、元就があの男がいなくなったと実感したのは死の数か月、それほど時間がたった後だった。 空虚な感覚は確かに心に兆していた。 しかし、あの夜、庭に散っていたのと同じ花が、一巡りした季節の果てに、散った時に、それは決定的に元就の胸に兆したのだった。 空虚さの源となる感情の名を、元就はまだ、解してはいない。 いや、ずっとそれを解することもできぬのだろうと元就は漠然と思ってもいる。 尋ねる相手すらいない、自分に情を与えた、あの男はもういない。 「愚か者めが」 あの夜、あの男を殺していれば、殺してさえいれば。 あの、くだらぬ妄言をぬかした喉を、あの日掻き切ってやれていたら。 今、訳の分らぬ空虚感に苛まれずにすんだであろうか。 この、名前も知らぬ感情をもてあましもせずにすんだであろうか。 『元就、お前もそうかもしれねえな』 あの言葉を思い出し、元就は強く、唇をかむ。 『お前も、気付かねえんだろうな、きっとよ』 訪ねておけばよかったのだ、何に己が気付かないだろうと男が判断したのか。 それが今自分の感じるものと同じであったのか。 さすれば、このような空虚感などと無縁であったかもしれぬというのに、意識せずにすんだかもしれぬというのに。 この空虚感の名を、知れただろうに・・・。 じわり、と、鉄の味が口腔内に広がった。 「勝手に死ぬなら、情などかけずにさっさと死ねばよかったのだ、迷惑な男よ」 足元にある花を踏みつぶす。 形骸的にあの男の居場所と称されるそれに供えられた鮮やかな赤い花。 それをあの男のものより一回りほど小さいだろう自分の足が踏み拉く。 強く強く何度も。 どうせこの男はこの場所にすらいない、どこを探しても二度とあいまみえることは叶わない。 あの男がずっと、ずっと焦がれた海の果て、そこに辿りつかぬ限りは、二度と。 ここにきても、あの男に訊ねることも、この空虚感を埋めることすらもできないだろうこともわかっていたというのに。 それでも、ここへと訪れずにはいれなかった自分を、その弱さを、元就は呪う。 暫くし、簡単に、無残に自分の足の下で潰れた花を見、それでも少しも気が晴れぬ心に自嘲する。 赤く地に刷り込まれた花の滴に、あの男の血を見た気がし、戻らぬあの抱きしめられた腕の温かさに空虚感が押し寄せる。 繰り返し繰り返し、頭であの言葉がめぐり、意識させられる空虚感に胸が塞がる。 そして、中国の智将は、喉に慣れ過ぎた言葉をまた、呟く。 ああ、あの時、あの喉を・・・掻き切ってさえいれば・・・。 あの言葉を聞きさえしなければ、あるいは・・・。 +++++++++ チカナリズム提出。 文才のなさが際立って恥ずかしいですが・・・楽しかったです。 |