※パラレルです。嫌いな方は窓を閉じてください。 鬼 飼 前 鬼の若子を見た。 それは酷く暗い新月の晩で、あたりには不気味に満開な桜がある。 何かに誘われるような気がし、眠れぬ足は、屋敷を抜け出しており、森に迷い込んでいた。 いつもならこのような軽率な行動を松寿丸は取ることはなかった。 仮にも将来の毛利を継ぐものであり、家を守り続けると誓い、そう言い聞かせ続けている。 その為に兵法を頭に叩き込み、武道にも取り組んでいる。 自分に何かあれば国が、家がどれほどの損害を被るかも重々承知している。 しかし珍しくも、どこかその異形な空気は松寿丸を惹き付けた。 裸足で、それを傷つけぬようにゆっくりと慎重に、森を進んでいった。 ふと、開かれた場所が目に入る。 そこだけよけるように木々は生育しておらず、その真ん中に一人の若子が立っていた。 銀色の髪、華奢な体躯。 年のころは自分より少し下だろうか、その姿勢にもどこかあどけなさが残っている。 解かれた包帯がその若子の足元に落ちている。 若子は闇に動じた様子もなく、ただぼんやりを虚空を見上げていた。 それはただ、庭で太陽を、空を、花を見上げる普通の若子とそう変わる姿ではなかった。 しかし、松寿丸は理由もなく、その姿にただ戦慄する。 逃げねばならぬ、そう思い、足を一つ、下げた時だった。 足元で枝の爆ぜる音。 それに気がついたようにその若子はゆっくりと振り返った。 松寿丸はそのまだ幼い顔のどこかに、異形さを直感で感じ取り、戦慄が駆け抜ける。 異形、それは左右で色の違う双眸。 闇だというのにその色は鮮やかである。 茫然とそれに視線を注いでいる、松寿丸の視線と若子の視線がゆっくりと絡む。 引きずり込まれる、そう思われた次の瞬間、体が重力を失うのを感じた。 いや、正確には倒された、気がつけば地面に強く頭を打ち付けている、視界が大きく歪む。 うまく呼吸ができない、思えば頸元に手が添えられている。 ぎしりと音がするかの如くに、その体躯にはそぐわぬ程強く加えられた力は正確に呼吸器を拘束しており、呼吸を許さない。 緩く動きを止める血流にぼんやりと働きを鈍くする思考、霞みそうになる視界の端、若子の赤い口元を認め、鬼、そう判断を下した。 「見たな」 若子は大きく口をあけ、その顔を頸元に寄せる。 歯が肌を割き、痛みが体をめぐり、喉を声にならぬ悲鳴がつく。 同時に流れる鮮血の感触。 断続的な激しい痛みに死ぬかも知れぬ、思考の端でゆっくりとそう感じ、ゆったりと目を閉じた。 不思議と死ぬことに対して恐怖も嫌悪も感じず、ただそこにあるものとして受け入れている自分に驚く。 次にくるだろう肉を噛み切る感触を、松寿丸は想像する。 しかしそれは松寿丸を噛み切ることをせず、ただ静かに離れた。 同時に解放される呼吸器。 ゆっくりと目を開ければ、闇夜でも光るその相貌は大きく見ひらかれており、じっと松寿丸を見つめている。 その視線に落胆を感じ、呼吸器が落ち着くのを持ってから、口を開いた。 「どうした、喰わぬのか、鬼」 「・・・」 「このような肉付きの悪いからだは口に合わぬか」 「死ぬのが怖くないのか」 その言葉に一瞬思考が止まり、ああ確かにと遅れて実感した。 確かにこの若子を見た時に戦慄は感じた、しかしいざ、手を頸元に添えられ、肩に噛みつかれたときに恐怖は感じ得なかった。 その事に遅れて驚き、ああ、そうか自分は死を恐れていなかったのだと納得する。 肩に手を滑らせればべったりと赤い鮮血がついた。 それをもののようにみている自分を思い、顔をあげ真っ直ぐに色の違う双眸を認める。 「怖くなどない、特に感慨もない、殺せばよい」 死んではいけないのだとは思う、しかし死にたくないとは思わなかった。 それは義務であり、意志ではない。 毛利のために死んではいけない、国を守るために死んではいけない。 しかし死にたくない、そのような感情を持つことは教わっていない、そう松寿丸は思考した。 寧ろ、毛利の為なら死んでもよい、国の為なら死んでもよい、そうとすら思う。 死は嫌悪の対象ではなく、回避が義務であり、そしてただ生活の、延長線上にある何か、そう自分は理解していたのだとあらためて思い知らされる。 鬼の若子は哀しいものを見るような憐れみを込め、自分を見つめていた。 寄った眉、細められる双眸。 そのような表情をも松寿丸は知らなかった。 自分を見つめる視線は称賛と、そして尊敬に満ちているものではなくてはいけなかった。 しかしこの若子は憐れむような視線を向ける、そして小さくかぶりを振った。 その姿になぜかこの鬼になら殺されても文句はない、そう感じた。 「哀しい」 「哀しい?」 若子は松寿丸の問いにこくんと頷いた。 「普通の人は死ぬのが怖い、でも君はそうじゃない、それは死にたくない、そう思わせることがないってことだよ」 可哀相、そう若子は呟いた。 確かに、そう返す、そう思わせるものはない。 「死なぬことは義務だ、意志ではない、確かにそれは哀しいことなのかもしれぬな」 だが、別に我はそうは思わぬ。 そういえば若子はまた、表情をゆがめた。 その様の方がむしろ人間臭い、そう、元就は思った。 その髪が銀色でなければ、闇に浮かぶ相貌の色が違わなければ、きっとこの若子は自分より人間に近いのだろう。 酷く優しい、そう思う。 若子の指がそっと首筋を撫でた。 その指に赤い自分の血がこびり付いた。 若子は袖で松寿丸の首筋を、否、若子が噛みついた事で出来た傷を露出させた。 夜風に沁み、思い出したように傷口がまた痛みを持つ。 確かめるように何度かそこを撫でた後、若子は立ち上がり、衣についた土を丁寧に払った。 袖口には濃く、赤黒い色が刻まれている。 徐に若子は踵を返し、背を向け歩きだした背に、一瞬茫然とし、声をかける。 「喰らわぬのか」 若子はゆっくりと顔だけを松寿丸に向けるとにこりと微笑んだ。 「君が大人になって、地位も名誉も全てを手に入れて、死にたくない、そう思ったときに喰らいにくるよ」 銀色の少年はそういうと、少年らしいあどけなさを消し去り。 鬼のような異形さを湛えた笑みで笑って見せた。 「君は僕の獲物だよ」 後篇に続く。 |