泡沫 「松寿丸様はどうして戦うのですか」 井戸で汲んだ水で顔の汗を拭っている時に後ろから声をかけられた。 見れば、華奢な少年、銀色の髪をした少年が縁側に座っていた。 年のころは自分より少し下であろうか、しかし手は武道を知らぬかの如く細く華奢で、豆や傷もない。 数日前からこの城に滞在しているその少年は自分の知る限り一回も外に出ていないようである。 姫若子。 そうささやかれているのを聞いた。 しかしこの少年は否定すらしない。 戦国乱世に生れ、一国の領主の嫡男だというのに戦を疎い、家に籠ってばかりいる。 松寿丸はため息をついた。 この少年が松寿丸はとても嫌いだった。 いや、見てて苛立つが正しい。 「何故と言うがそなたは何故戦わぬのか」 「戦は嫌いでございます」 はっきりとそういうと眉をひそめた。 奇麗な相貌が細められる、そして自嘲気味に笑った。 「しかし時代は戦国乱世、そうは言ってられないのも承知しております」 「わかっておるならば戦えばよかろうが」 井戸の水に手を通した。 冷たく滑らかな水が指に絡みつく、その中にある自分の手には豆がある、傷もある。 それは日頃の修練で刻まれたものだ。 食べてもなかなか筋肉に還元されぬ体にも苛立っているというのに、この少年はその努力すら怠っている。 戦が嫌い、それだけの理由で、だ。 戦なぞ酔狂でない限り好きだとぬかす輩もいないだろうが、生まれた時代ゆえ、戦わねばならぬ者もいる。 自分だってそう、戦が好きな部類ではない。 だが、戦わねばならぬ、だから戦う、それだけだというのに。 少年は戦いたくないから戦わぬという、それが罷り通る少年の境遇にさえ、自分は苛立っていた。 「ですが、人が傷つく様は見たくないので御座います」 最後の方は言葉が掠れ、うまく聞き取れない。 少年は抱いていた膝に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らし始めた。 その様子に松寿丸は一瞬途方に暮れ、そして次の瞬間には再び苛立ちが頭をもたげる。 何に泣いているというのだ、不幸な境遇だとでも思っているというのだろうか。 責め立てるような言葉を脳裏に思い浮かべる、しかし寸での所で吐き出しそうだったそれを何とか飲み込んだ。 これ以上泣かせるのは憚られる、それに、自分がそのあとどうすればいいか分からないだろう。 いつもはこのまま捨て置くところだが、それもどうも憚られる、隣国の城主の嫡男だ、それに自分より幼い。 彼にかけられる言葉は早く戦場に行けとか修練をしろとかそういう類のものなのかもしれない。 さすれば、乱世の不条理など吐き出す相手もいないのかもしれない。 そう自分に言い聞かせ、松寿丸はゆっくりと息を吐いた。 そして濡れている手を布でしっかりと拭き取ってから、少年の座っている縁側へと向かう。 庭を横切り、隣に腰かけると、少年の小さな肩がびくりと一瞬、揺れたような気がした。 「弥三郎、人は死ぬ、貴様はそれが悲しいという、しかしこの戦国乱世、人は死ぬ、望もうが望まないが、死ぬ」 「・・・」 「しかしそれは仕方がないことだ、乱世に生きる以上それは覚悟せねばならぬ」 「・・・はい」 「敵は死ぬ、味方も死ぬ、貴様が関わろうが関わらまいが、人は死ぬぞ、それなら貴様ができることをすればよい」 言葉に少年は顔をあげ、憂いの籠った眼でじっと松寿丸を見つめる。 左の眼から透明な滴がゆっくりと零れ落ちる。 そしてそれは奇麗な少年の衣に落ち、小さく染みを作った。 そのさまを見、また苛立つと同時に奇麗だと頭の隅でかすかに思う。 もう一度荒げそうになる言葉を落ち着け、ゆっくりと続ける。 「弥三郎」 「・・・はい」 「我は守るために戦う、国を、家をだ、貴様もそうすればよい」 「・・・はい」 「何かを守ろうとする意志は強い、そして迷わぬ、中央の輩が天下とぬかすがそんな夢物語よりもっと強い」 「・・・はい」 「戦う意味を見いだせぬのならそう思って戦えばよい、そして一つでも多くの死を減らせばよい」 銀の髪に指を絡ませてやる。 そしてかき乱すようにぐしゃぐしゃと頭をなでた。 髪の中は暖かく、そして日に焼けていないためだろうか指通りもよく柔らかい。 しばらくそうしていると泣きやんだのだろう、少年は袖でぐいっと涙をぬぐった。 そしてまっすぐに松寿丸を見上げる。 「有難う御座います、松寿丸様」 そういうと少年は涙で腫れぼったくなった眼をそのままににこりとほほえんだ。 目が覚めた時、既に世界には夜の帳が下りている。 遠くから夕餉の支度の声が届き、家臣が行き来しているのを感じる。 久しぶりに深い睡眠をとった気がすると元就はおもう。 同時に古い夢を見た、そう自嘲した。 「起きたか」 灯の光も灯していない部屋の隅、縁側に近い柱に凭れ男が座っていた。 障子をあけてあり、その向こうには庭が見える。 その庭を見やるようにして男、長曾我部元親はそこにいた。 銀色の髪に筋肉が隆々とした頑強な体躯。 そして見えぬ左顔面は鮮やかな躑躅の色をした布で覆われている。 「ああ、すまぬな」 「いいってことよ、別に急用があってきたわけじゃねえしな、大方また無理に仕事こなしてたんだろ」 部屋の隅の机を顎で示し、男は笑った。 快活で豪快、そして傲慢。 その所作に嘗ての面影を見ることはかなわない。 あの華奢な体躯も、豆一つない奇麗な手も今では見る影もない。 あの時自分が一心不乱に求め続けた隆々とした体躯も、この男はあっさりと手にしてしまった。 風のように戦場を駆け、大きな碇のような形状の武器を振り回し、敵をなぎ倒す。 昔姫と呼ばれた男は、今は鬼と呼ばれている。 唯一変わっていないのは、そう銀色の髪だろうか。 昔のことを話したことはなかった。 鬼とまで呼ばれるようになった男のことだ、姫などと呼ばれた過去は忘れたいに違いないのだろう。 一度会話の端に匂わせた時があったが、男は曖昧に笑って流してしまった。 揶揄するのは容易いが、相手に敢えて不快感を与えるためにするような話でもない。 しかし確かめてみたいという思いはある。 元就は掛けられていた布団から抜け、鬼のそばに腰を下ろす。 庭の木々は緩い風にさわさわと鳴り、風は頬を掠め飛んでいく。 春の色濃い庭には既に色々な花が蕾を付けている。 あの時季節はいつであったか、そう漠然と思いながら鬼に視線を向けた。 鬼はじっと何事だろうかと元就を見つめている。 「長曾我部」 「どうした」 「貴様は何のために戦っておるのだ」 鬼は驚いたように目を見張り、そして細めた。 それは優しい、過去を回顧したものが持つ、その眼差しだった。 弥三郎、そう、心の中で呟く。 「守るためだ、天下は勿論欲しい、だが国を、そして家を、そして部下をだ」 手が延ばされ、太い指が頬にふれた。 そして顎を引き寄せられる。 至近距離で会う視線、鬼は静かに笑っていた。 「お前はどうなんだよ、元就」 「ふん、国のため、家のためよ」 「そうか」 変わらねえな、松寿丸様。 そう聞こえた、と思った瞬間には背中から畳に落ちている。 自分より大柄な男に抗う術もなく、背中でぎしりと畳がきしんだ。 肩口を腕で抑え、男は覆いかぶさるようにして顔を寄せる。 鬼の銀の髪が顔を掠めた。 日に焼けた男は欠けていない方の目を細め、元就を見つめる。 悪戯心を色濃く映したそれやはり昔の男からは見れなかった、その視線だ。 「それ以上に守りたいものは増えてねえのか」 「戯言を・・・」 「四国の鬼なんてどうだ、まあお前に守られる柄でもねえけどよ」 「貴様・・・」 「わりいな元就、俺は可愛い部下と国と家で手いっぱいなんでね、お前まで手が回らねえかもしれねえ」 「下らぬことをいうでない、その口を・・・」 言葉を言い終わるよりも早く、有無を言わさず乱暴に塞がれ、飲み込まれる言葉。 もっと深くと鬼が元就を抱きしめようとし、触れる場所からじわりと広がる熱、そして掻き毟りたくなるような痺れ。 幼いあの日々、四国の姫がこのような鬼に豹変するとは夢にも思わず、そしてこのような関係に落ちることも知らず、ただその憂いを秘めた瞳に、苛立っていただけだった、そう今でこそわかるその感情の名。 そしていま、胸をかき乱すそれを。 死んでもこの男に告げてなるものか、中国の知将は一人、そう思う。 銀色の髪、戦う理由、少しの臆病、自身の体格、そして・・・。 夢幻の如く、しかし確かにここにある、幼き日の幻影の影。 |