隘路


「お前が玩具というが、あれはあれで十分に役に立つ」

腕の中に納まる男に声を掛ける。
外からは雨の音がし、湿った匂いが室の中を満たしている。
しとしとと世界をぬらす雨は酷く静かで、断続的に降り注ぐ。
咲きかけた花の蕾もこの雨では身じろぎすら出来まい、春先の雨はまだ冷たい。
厚く空を覆う雲は腕の中の人の崇拝する日輪の光を届けはしない、故に気温も上がらない。
春の訪れはまだ遠く思える。
しかし確かに暦の上では春である。

腕の中で男はふん、と鼻を鳴らした。

「お前も使えばいい、今の時代柔軟性が物を言うぜ」
「くだらぬな、人間でさえ使えぬというに、あんなもの、不確定要素になりこそすれ確定要素にはなるまい」
「味方の犠牲は少なくてすむ」
「甘い男よ」

先ほど元親が剥ぎ取って、体が冷えぬようにもう一度曖昧にくるんだだけの着物の襟を合わせるようにし、男は会話に応じる。
特に抵抗はなく、背中から抱かれるようにして男は元親に拘束されている。
疲れたのか、はたまたただ面倒なのか、男は大人しくしていた。
抱く時でさえ、そうだこの男は特に目立った抵抗もしない。
全てを受けてれているのか、はたまた精神さえ侵されなければ構わないのか。
それとも自分さえ策として駒として組み込んでしまう男のことだ、胸のうちには窺い知れぬ何かしらの理由を設け、そのようなふりをしているだけかもしれない。
その細く華奢な身体の中にいったいいくつの策を、苦悩を、葛藤を抱え込んでいるのか、元親は抱く度にそう思う。
しかしその隙などを男が与えるはずもなく、ただ漠然と傍に寄り添うだけだった。
果たしてこの胸に息づく感情、此れが恋慕かはたまた同情か、それすら計りかねたがそれでも構わない、元親はそう思う。

「いいじゃねえか、部下はしなねえ、国は護れる、国主としては此れで十分よ」
「甘いといっている、それで国を傾けそうになる男が何を言うか、国は治めてこそ国主よ、貴様の下らぬ臆病で切り詰められる国民のみにもなれ」
「お前にいわれたかねえな」

曖昧に笑い、つい先日まで繰り広げてきた戦のことを脳裏に描いた。
地面に横たわる両軍の兵士を見た。
兵器が敵軍を蹴散らすさまを見、怒号を上げた。
慕っていた部下が命を散らした。
いくつの死体を、海へと流しただろうか。
何度も死を見出した、先ほど無様だと男が指で辿ったほどに多くの傷を負った。
自分を助けて消えた命が多くあった。
この手で多くの命を絶った。
自分は多くの犠牲の上に生きている、それも膨大な犠牲の上に。

手にしたもの、護りきったものも多くある、しかし失うものが多すぎる。

腕に力を籠め、もう少し身体を密着させる。
外気に触れる自分の胸板に華奢で薄い体が感じられる。
この前この身体を抱いたのは冬も更けぬ頃であったと元親は思う。
庭の木々が葉を落とし、空は青く澄んでいた。
風が冷たく吹き込むのに低体温の男は障子を閉めよと何度がこぼした記憶がある。
その時と変わらぬ男の姿に、ため息が出た。
体の細さも、表情も、首筋に埋めた時に感じる匂いも、寸分と変わらない。

「お前は戦に出なかったのか」
「ああ、ここ最近は駒に預けるほど他愛もないものしかなかったのでな、我自らは戦場に赴いてはおらぬ」
「そうかい、そりゃよかった」

この曖昧な時間を元親は好んでいた。
男の酷く不機嫌そうな、しかしその実それほどでもない毒舌と他愛のないやり取りを。
細く冷たい身体が自分の腕の中で熱を持ち、それがゆるゆると下がっていく様を感じる時間を、元親は好む。
それは他でもない、ただこの腕の中の命が此処にあることを確かめ、安心するためだ。
そして自分が、この世界にこの男のいる世界にまだ繋がっていることを実感するためだ。
そのことを男に言ったことはなかった。
しかしこの聡い人間のことだ、もしかしたらとっくに気付いており、その上で受け入れているのかもしれないとも思う。
いや、人間の感情に疎い男は何も気付いていていないかもしれない。
西海の鬼と呼ばれても時々感傷に浸る臆病な自分のまたくだらない迷いからくる、そのうえでの行動だと思っているのかもしれない。
男は責めない。
何ヶ月も文すら寄越さず、しかも唐突に現われ有無も言わさず畳に押し倒す行動を。
そして情交ではなくただ、行為として行う元親を。
それは父性や、まして親愛の情やそういう類のものではないとは思う。
それならば何故許すのか、執務を中断させ、落ちた筆が畳に染みを作る様を。
固い畳に背中を預けることを。
疑問は尽きない、しかし中国の知将を理解することは適わない。
温度のない瞳も、めったに笑みをかたどらぬ表情筋も。
考え出せばきりがない、故に眼をつぶり、こうして非生産的な行為を繰り返す。

そして生を確かめる。
ただ、自分が生きていることを。
変わらず、中国の知将も健在であることを。

ゆるゆると心地よい体温に少し眠気を喚起されながらまどろむ。
時間の経過さえ、如何でもよい。

と、腕の中の男が身じろいだ。
なにかあったと思えば特に抜け出そうとしたわけではないらしい。
しかし、意識が障子の外に向いている。
つられて見れば日輪の光が射しているらしいのが見えた。
序で、鳥の声も聞こえた。

少し前には雪が降っておったのにな、腕の中の人はそう一人ごちた。
季節の経過は早いな、そう返す。

「春が来るな」
「ああ、そうだな」
「また戦がある」
「そうか」
「終わったらまたくる」

その言葉に元就は答えなかった。


また季節が巡る先、お互いの生を確かめる機会に恵まれるのだろうか。
自分は戦国の世に命を散らしてはいないだろうか、またこの知将はどうだろうか。
そんなことを考え、知将の冷え始めた首筋に鬼は顔を埋めながらその身体をしっかりと抱き、今腕の中息衝く麗人の命と、自分の命を触れ合わせていた。