潮風 何の薫りだろうかと元就は考える。 海風渡る、船の上だった。 日輪は天頂で燦然と輝き、水面に光を含ませる。 そこを切るように船の舳先は水面を滑っていく。 快い振動、波の揺らめき、不確かな足元。 船の上では兵士達が多く蠢いていた。 船の進路を保つためには多くの人間が動員される。 多くの水軍の中でも随一と評される中国の水軍は確かにその評価に相応しく、無駄な動きがなかった。 それは主の潔癖といえる性格にしたがっているのかもしれなかった。 その動きを、その整然とした動作を快いものと看做しながら、意識を思考へと戻す。 (何の薫りだったか) 普段訓練に参加しない元就はこれは船の上で嗅いだものではないだろうと勝手に解釈する。 鼻に付く、まとわり付くような潮風。 何の香かと問われれば間違えなく潮の香だ。 では、いつ嗅いだというのか。 文字を、いつも室で追う文字などの文書などの記憶を探り出すのは簡単だった。 しかし感覚器となるとそうはいかない。 あれは何かの弾みでしか思いだせぬことが多すぎる。 自分に思いだせぬことがあることに元就は苛立ち、色々に結びつけて記憶を掘り出そうとする。 幼い頃に抱き締められた感触、初陣で人を切った感触。 錆びた鉄の匂い。 腐乱臭、自分を敵とし、向かってきた男達の咆哮。 室に満ちる墨の香。 多くの家臣を殺し、冷然とそれを見下ろしてきた日々。 冷え切っていくように明らかに感ぜられた心。 雨の冷たさ、その湿った匂い。 太陽の暖かさ、その薫り。 戦場の舞い上がる砂埃の埃臭さ。 庭に落ち、腐った果実の吸えた匂い。 そして、一人の男が持つ薫りを。 夜、室に齎す潮と太陽の薫り。 乱暴に抱きしめられるとその匂いは濃く鼻を刺す。 銀の髪にもその太い首筋にも細胞レベルで染み付いていたあの薫りは。 (長曾我部の、か) あの筋肉質の胸板、 物憂げな表情、飄々とした笑顔。 時折真面目に見せる表情、西海の主としての顔。 鬼らしい乱暴な口付けの感触、肌の上をなぞる指の固さ。 体表をなぞる舌の感触、その温度。 呼吸音、呼気の温度。 何も知らないつもりで、忘れたつもりでいたのに薫り一つで鮮明に思い出せる自分の脳髄を、身体を疎ましく思う。 眩暈がし、頭を押さえる。 眼を閉じれば後姿が見えた。 色の完全に抜け切った銀色の髪。 臙脂色の着物を風に靡かせ、碇のような形状をした武器をその肩に背負って。 何ヶ月、いや何年前だろうか。あの男の後姿を最後に見たのは。 『元就』 男は海に連れて行きたいといった、四国を見に来て欲しいといった。 その言葉を元就は突っぱねた。 あの時男は何を意図したのだろうと今元就は思う。 元就が何の理由もなく自国を離れることは皆無であることくらい、あの男は知っていた筈だというのに。 争いで荒らされる前の彼自慢の美しい四国を見せたかったのか、ただ中国の城が居心地が悪かったのか。 それとも。 男は振り返らない。 体中に海を刻んだ男はただ、元就に背を向けている。 途方もない、あの男がどこを目指したかさえ、元就は知らない。 どこへ消えうせてしまったかさえ、知らない。 『元就、知っているか』 四国へ足を運ぶのを拒んだ日、男は一瞬悲哀に満ちた表情をし、室から見やることの出来る綺麗に手入れされた庭に目を向けた。 その日も今日よろしく気が遠くなるほどに晴れ渡っていた。 日輪が天頂で燦然と光り輝き、庭と室の明度の差に、陽光の下が別世界かと紛うほどに。 緑は酷く鮮やかで、そこに空の青が背負われ、真っさらな白い雲がゆっくりと風に流されていた。 男は柱に背を預け、空を見上げていた。 四国と中国でもそらのいろはかわらぬな、などと一人ごちて。 室には緩く塩の匂いが満ち、そこに執務に使った筆のために墨の匂いが混じっている。 『人間の五感で一番記憶として残るのは嗅覚らしい、俺はそう思う』 『そうか、貴様は鬼ではなく動物らしいな、結構なことだ』 『一般論の話だぜ、元就』 余りにもその声が真剣だったのに驚き、元就は軽口を付くのをやめた。 机についていたのから立ち上がり、男の傍による。 すれば眩しそうに目を眇め、隻眼の男は元就を見上げた。 そこに浮かぶ色がいつもより頼りなく、弱々しいものに映り、元就は面食らった。 どうした、すら問うことを許さぬ雰囲気が、ある。 『差し詰め、我に関するは墨の香か』 話をあわせれば男はそうだな、と笑った。 そして墨の香か、と口の中で男は何度か反芻し、飲み込んだようだ、墨の香、男は納得した。 『元就』 腕が伸ばされた。 おとなしく男に従う。 傍の畳にひざをつき、しな垂れかかるようにその身体に覆いかぶさる。 男は元就の頭を抱え込むように強く抱き寄せ、首筋に顔を寄せた。 そして、ああ、やっぱり墨の香だ、そう呟く。 『俺は如何だ、元就』 やけに名を呼ぶ、そう思いながら男を辿る。 酒か、あるいは血か。 そう思ったとき、鼻の奥に潮が薫った。 風向きが変わったのか、そうぼんやりと思った。 『酒、か。貴様は我がやめろといっても酒を飲んでおるからな、あれは匂う』 『酒か』 『ああ、酒だ』 あの四国の安そうな酒だ、そういえば男の胸が震えるのがわかった。 笑っているらしい。 そしてその笑いの余韻をそのまま直ぐに消し去り、腕に込める力を一層に強める。 潮の匂いが一層に薫る。 ああ、この潮の香は男のものであったか、そう元就は一人納得した。 『酒か、四国の酒か』 『拘るとは珍しい、それがどうした』 『なあ、元就、四国に来てくれよ、海を、渡ろうぜ』 泣き出すのではないかと思うほどにその声には余裕がなく、たくましい腕の中にいながら元就は子供を抱いているような気になった。 鬼と呼ばれる男の癖に、どこか頼りない。 時々このようなことはあった、しかし此処までだったことは多分いまだ嘗てない。 何かあったのか、はたまた何かあるのか。 しかし、四国の情勢全てに気を払えるほどに元就も暇ではなかった。 聞けば話すだろうかと思う、しかし聞いてはいけないのだとも思う。 男はたいてい話したいことしか話さない、話したくないことはたいていは煙に巻く。 所詮、敵同士でしかない、今敵対していない、ただそれだけだ。 その距離をもどかしいと思ったのは今日がはじめてである。 『先ほども申したであろう、我はそこまで暇ではない』 『どうしてもか、息抜きに、というわけにもいかねえか』 『くどい』 男はそれきり黙り、ただじっと元就を抱き締めていた。 振り払う理由もない、元就はただそのままにしておく。 心臓が、臓腑がそのなかで蠢いてるのが備に感じられた。 そして鼻をつく潮の香り、それを日が暮れきり、男が帰る時刻となるまでただ。 それが男を見た最後となる。 (刻み付けたかったのか) 薫りを、比喩的象徴としてそれを。 刃で、爪で、歯で以って刻みつけるよりももっと確かなそれで。 (海の匂い) 記憶とともに喚起された男との時間。 あの言葉は本当だったのだと今更に元就は思った。 男は信じていた。 海の香が元就にとって最高の記憶媒介になることを。 だからもっと早くの段階から鬼と、海の香を結び付けて置きたかったのだろうか。 潮風が薫るたびに、記憶に喚起され消えぬように。 戦国に散った多くの犠牲の一つとして記憶に埋没されぬように。 (長曾我部、元親) 死ぬまで、死ぬまで自分は潮の香りとともに思い出すのだろう。 あの男を、西海の鬼を、長曾我部元親を。 それは残されたものの責務なのかも知れぬ、そう元就は一人ごちる。 生きなくてはならぬ、君主としての義務ではなく、本能として、衝動として、初めて元就はそう思った。 眼を閉じた先に映る男はただ只管に背を向け続けている。 いつか、我がそこにたどり着いた時、果たして男は振り返り、笑うだろうか、中国の知将はそう思い、潮風薫る蒼天をただ、見上げていた。 |