躑躅



「海にな、流してもらうんだ」

そういって、男は杯を煽った。
庭は躑躅の花が咲き乱れている。
緑の中に点す鮮やかな色。
潮風が、鼻腔を擽りそこに花に匂いが少し香った。
酔ったのかと大酒のみの男を見やればその眼にはいつものように聡明な色が湛えられていた。
どうやら酔っているわけではないらしい。

「何をだ」

時々男は取りとめもなく唐突に言葉を吐いた。
それは独り言の様でもあったし、誰かに聞いて欲しいと思しき様相でもある。
今回は後者であろう、元就は執務のために取っていた筆を硯の傍に置き、隣に腰を下ろした。

「俺が死んだら、だ」

男はそういうと、傍らにあった徳利を取り、杯に注いだ。
琥珀の液体が日輪に照らされ光を呑み、燦然と輝いた。
ゆるりと立つ品のよい香りは男が好む、この国の酒だった。
それを感慨深げに彼は眺め、それを干した。

「世界は広いらしい、南蛮がそういっている」
「知っておる」
「だったらこんな狭い国だけ死ぬのも勿体ねえ、そうおもわねえか」
「思わぬ」

お前は海を、大海をしらねえもんな。
哀れむように、否、どこか得意げに男は言った。

「外海にはしらねえ国があって、しらねえ色の海があって、しらねえ財宝があるんだ、そいつを見にいきてえ」
「行けばよかろう、国を棄てればその願いは叶おう」

死んでからなど言わずに、今すぐに。
そういうと男は目を伏せた。
知っていた、いくら男が望もうが国を出られないことを。
版図を自分が広げた、多くの犠牲に男は立たされている、生かされている。
その業を背負い、ただ実直に生き抜くしか男には残されてはいない。
多くの部下が寄せる信頼を、不相応な名を持つほどに優しい男は裏切れない。
否、裏切りたくないのだ。

「だから、せめて死んでからくれえ、行きたい所にいきてえじゃねえか」

そういうと男は空を仰いだ。
そのまま、男は口を閉ざした。
考え事を始めれば男は口を閉ざしたまま、何時間でもそのままでいるのはよくあることだった。
その頭の中に何がよぎっているのか、まだ見ぬ外界の地であろうか、海であろうか。
今まで殺してきた兵の顔だろうか、今、共に天下にでんとする家臣の顔だろうか。
いや、もうそんな会話のことは思考から排除され、自分の平定せんとする四国の情勢を考えているかもしれなかった。
ため息をつき、立ち上がった。
男は視線もよこさなかった。
机に付き、筆を執り、執務を再開した。



最後の文字を書き終え筆を置いたとき、もう日は傾いてきていた。
振り返れば縁側にいたはずの男は、室の中で仰向けに寝そべっていた。
なんと尊大な男だろう、その尊大さは見慣れたものであるともいえたが、それでも元就はため息をつく。
厚い胸板、それが呼吸に合わせて静かに上下する。
筋肉が満遍なく付いた体、敵前に晒されているそこには傷が所々に見える。
それが、海に沈む様を、想像した。
槍か何かで貫かれた上体からは鮮血が迸り、それはあの海の青と混じっていく。
ゆっくりとその身体は沈んでいくのだろう。
波に、彼の銀色の髪が揺れる様も思い描く。
波にもまれ、彼の体が翻る。
そしてゆっくりと、深海のそこ、白色の砂の上に背中を打ち付ける。
魚が、はい寄ってくるのだろう。
ゆっくりと波は彼の体を外界へと流していく。
そして徐々にその肉は洗い流されていき、最後にはただ、白骨だけが波に晒されていく。
そしていつかは。
誰も彼の死を弔うこともなく、男は永遠に孤独でいるのだろう。
それを彼は望んでいるのだろうか、とふと思った。

全てを、棄てて、残して。

「それなら早く死ね、そしてどこまでもいってしまえ」

きっとその死後の奔放さでさえも、己は羨むに違いないと、そう思った。
自分の力量に絶対の信頼を置き、従順な部下を従えて、戦場を闊歩する姿にも嫉妬にも似た焦燥を感じるというのに。
それを全て置いて、遠くへと。
自分が棄てたものを全て所有しているにも関わらず、孤独を、望むその男に。
殺意にも似た、嫉妬を感じる。

「長曽我部、元親」

自分の前にこの男の死体が横たわった時、自分はこの男を閉じ込めるだろう。
小さな池に、深く沈めて、逃げれぬように。
そしてそれを見下ろして、冷笑する自分が見えた。
「どこへも行けぬだろう」
そう、蔑むような笑みを浮かべる自分が。

そう思う自分が、酷く矮小に思え、嫌悪感が突き上げる。

「貴様は」

違う、と思った。
勝手に人の精神に土足で踏み入り、踏み散らした男は忘れていた孤独を、そこに自覚させた。
独り、それを哀れみ、男は隣に佇んだ。
それは同情であったのだろう。
それでも男は傍にいた、肌を重ねた。
消えぬものはたしかにあった、だが確かにまぎれたものもあったのだ。

それを、失うのを恐れているのだろう、そう元就は自覚する。

弱い、脆弱だ、そう、思った。
この男にあう前は感じ得なかったそれ。
いや、忘れていたそれを、もう、手にしたくはないのだろうと思う。

全てを掌に載せて、それを閉じることなく男は平気で振り回す。
だがその奔放さに、その傲慢さに、確かに惹かれたのは自分なのだ。

「・・・下らぬ」

数え切れないほどの死を見つめ、寧ろそれを操っていた自分にも拘らず、たった一人の人間が死を語ったことに少なくとも思考が乱れる自分を叱咤する。
くだらない、小国の世間知らずの鬼に思考を乱されるなど。
ゆっくりと息を吐き、思考をとめた。
視線の先にある男は相も変わらず規則正しく胸板を上下させていた。
銀色の髪にゆっくりと指を通す。
そこには微かながらも熱があり、男はまだ生きているのだと証明する。
寝息は乱れず、ただ静かだった。

ただ我の目が届かぬところで死ねばよい。

静かに呟いた言葉に、それでも男は反応すら見せず。
西海の鬼は、ただ静かに眠りを貪り。
その傍らで男は鬼の死を、そして今その手に感じる生をただ思い描いていた。


静かに室内に侵入する夜と、微かに香る躑躅の花。