不変と有限


「旦那、風邪ひくよ」

声が降ってきた。
春の陽気にまどろんでいた幸村はゆっくりと目を開けた。

目に入る高い青い晴れた空。
ゆっくりと流れる白い雲。
そして、果てしないほどの時間を共有して来た男の姿があった。
濃い茶の髪に、迷彩柄の服。
城外ではめったに姿を見せず、しかし陰で暗躍する男。
故に太陽の下でほほ笑むその姿は長い付き合いとはいえ見慣れたものではなく、珍しいととっさに心に浮かんだ。
しかしその笑みは暖かく、心の奥がゆっくりと太陽に照らされたように暖かくなる。
その感覚が幸村は好きだと思った。

傍らには武器が落ちている。
さっきまで修錬していたために庭先に立っていた木が一つ切り倒されている。
その切り口の乱暴さに、忍びがあきれたような視線を寄こしているのが見えた。
乱暴な修練を幸村がするのは何かがあった時だといことを忍びは熟知している。
それが、忍びから取ってすれば、まして乱世という視点からすればとるに足らないことだということも知っている。
それをある人は優しさと呼ぶが、忍びからすればそれが愚鈍以外の何でもないこととみなしているのも知っていた。
しかし、幸村にはそれを論理的に解消する手立てを知らない、故にそれは態度に、動きに出る。
それを包括的に忍びはとらえ、とくに言及することもなく、とくにうかがう言葉を使わず、遠回りに心配をする、ふりをするのが常だった。

「こんな乱暴に切り倒して、御館様に怒られちゃうよ」
「・・・」
「ねえ、旦那、起きてるの」
「おきておる」

忍びはぼんやりと自分を見上げる主に肩をすくめて見せ、傍にぞんざいに放置されていた武器を、まるで幸村の傍から遠ざけるように、縁側の隅へと動かした。
そして左手に団子を二、三本盛った皿を掲げ、笑みを零す。
親しみやすい柔和な笑顔。
それが戦場では真剣な表情となることも、時々本気で自分を叱りつける顔も、よく知っている。
幼い時はそれがよくわからなかった、しかし年を重ねそれは自分を大切に思っているゆえの表情だということも知った。
それにつられて重きを増したこの男への信頼感。
自分の敬愛する信玄に対するのとはまた違う、絶対的な信頼を、かんじる。
そして何よりも心地よい、この男と過ごす全ての時間が心地よい。
そして何よりも尊い。
かつてから多く重ねたこのような時、しかし昨今は続く戦乱に、戦闘にめっきりとその回数は減っていたように思う。
ゆっくりと忍びの顔を認め、このような感慨にふけるのも随分久しぶりのような気がした。

「旦那、偵察ついでに団子買ってきたんだけど、食べる?」
「ああ、佐助も食うか」
「え、いいの」
「構わぬ」

佐助とゆっくりと過ごすのも久しぶりであるからな。

勢いよく体を起こす幸村を見て忍びは珍しいこともあるものだね、と肩をすくめた。
そして幸村の隣に腰を下ろし、左手に持っていた皿を床におろしてから、左手で団子の串を掴み、幸村に渡した。
奇麗に焼き色の入った光沢のあるみたらし団子。
それは確かに自分が好む店の物で、それは付き合いの長いこの男しか知らぬものである。
その串を受け取りながら、しかし幸村は、忍びの隠しているのだろうその動きに不自然さを覚え、眉をひそめた。
幸村の表情に気付いてか忍びは左手に自分の分の団子を一本つかみ取るとさっさと庭に視線を戻してしまった。
飄々とした横顔。
その横顔をしばらく見つめてから忍びの右手に視線を落とす。
袖の先、白い布がしっかりと巻かれているのがかすかに見えた。
そしてさっきから網膜にちらつく、昨夜のことを思い出す。
自分を乱雑な修練へと駆り立てた、昨夜のことを思い出す。
一瞬、気を取られた瞬間に、横から伸びた敵の攻撃、反射的に体を反転させるが防御には足りぬ、そう思った瞬間眼前を横切った影、攻撃を防いだ腕。
散った鮮血、一瞬耳を掠めた呻き声。
そして倒された敵の姿。
月光の下、自分の前に立ち、その広く頼もしく見える背で自分を守ったその影。
地面にしたたる血液の流れだす場所。
ああ、と幸村は喘ぐようにため息をついた。
その男に視線を向けるが男は、相も変わらず飄々とした表情で庭の花を愛でていた。
しかし頭の中では高速で今日の仕事を、そして怪我で先回しにあるであろう仕事の埋め合わせのことを考えているのだろう。
何日で完治するかではない、何日でどこまでの仕事をこなせるようになるか、どこまで自分の体をだませるか、忍びはそう考える。
そのことを思い、暫く完治せず、痛みを持ち続けるだろうその傷を思い、自分がその傷をつけるきっかけを作ったことを思い、胸がふさがる思いがする。

「佐助」
「何、旦那」
「昨日の怪我はもういいのか」

一瞬きょとんとし、右手に視線を落とし、包帯がそこから少し見えていることに気付くと男は苦笑した。
それは、ああ、ばれちゃったか、位の軽い表情で、それを見て幸村は再び胸の奥が軋むのを感じた。
いつもそうだ、この男は幸村のことに関しては過剰に心配をするくせに、恐ろしく自分を軽視する傾向が見受けられる。

「ああ、うん、平気だよ」

手を何度か開閉して見せ、肘から先を何度か折ってみせる。
円滑に動くのを幸村に確認させると、それにね、と忍びは笑う。


「旦那を守って死ぬのが俺の仕事だから」


旦那が心配することないよ、笑うように謳う様に、男はそう呟く。
軽く、それは花が、鳥が奇麗だというような、何の重大性も持っていないかのように。
明るく、それは少年が将来の夢を希望にあふれた将来の夢を語るように。
しかし忍びの軽いその言葉を聞くたびに幸村は無性に悲しくなる。

なるほどそれは忍びの性だろう、しかしあまりにも哀しすぎると幸村は思う。
御館様の為に、そして自分の為にこの男は、この優しい男は身を粉にし、犠牲にし、様々な任務に従事する。
時には身を危険に晒すこともある、長い距離を走らされ、一歩間違えば殺される、そんな偵察にも日常茶飯事として従事する。
しかし、それが忍びだからと、幾らこの男が傷付こうが、自分はその身を案じることも許されず、ただその様を見ていることしかできない。

それが無性に歯痒く、とても悔しい。

だから酷く焦り、少しでも強くあろうと思う。
少しでも、この男の危険が減るように。
一日でも長く、隣にいてくれるように、笑いかけてくれるように。
乱世が終わった先、変わらず、縁側に並んで座り下らぬ世間話に花を咲かせることができるように。

しかしそれが夢物語なのだということも幸村は承知していた。
途方もなく、果てしなく、ただ夢なのだとも知っていた。

そんな幸村のことを知っているのだろう、男は笑う。
苦笑したような、そんな笑みでいつも笑う、そして感情が空回りをしそうになる幸村を陰ながらに軌道修正する。
幸村が成長すれば同様に男も成長する。
故に役割も、少しずつ変わってきているのだろうが、しかし大きく見れば変化など見られない気がする。
昔から何も変わらぬな、そう幸村は思う。

そして変わらねばよいと思う、ずっと、ずっと。
乱世が終わろうが、歳を重ねようがずっと。
叶わぬ願いだとしても。
そう、幸村は願う。

かつてしたように、忍びの肩に寄り掛かる。
特に反発もせず、ただそこにある腕に、布の下しっかりと筋肉の付いた腕に、ゆっくりと体重をかける。
変わらぬ体温、そしてかすかに香る男の持つ特有の、薬草や火薬などがまじりあった匂い。
幼い頃、頼りなかった自分の傍に居、ただじっと、隣で、肩を寄せ合うようにして、安心をもたらしてくれたかつて。
そこに不変を見、幸村はなぜか無性に安心し、そして胸の奥が熱くなる。
どうしたの、と間の抜けた声がしたが緩く首を振ることでこたえた。
そして一層に体重をかける。

「ねえ旦那、お茶、煎れてこようか」

もう一度首を振る。
忍びは不思議そうな顔をして幸村の顔を覗き込んだが、幸村は俯き、表情を窺われることを防いだ。

もう少し。

声に出さずとも伝わったようだ。
忍びは苦笑し、幸村の髪を軽く梳く。
その変らぬ優しい手に、その温度に。
叶わぬとは分かっていても、それでもずっとこのままでいられたらと思う。


そう、一瞬だとしても、それでも長く、このままでと。