きっと、希望であったのだろう。 それは絶望を届ける死神が唯一蝶に与えたもの。 蝶 の墓標 「ねえ光秀」 満月の夜に香ったのは血の臭いを酒の匂いで隠した女の笑みだった。 戦勝を祝う宴の外れで光秀は月影が作る深い闇を眺めていた。 それは光秀があまり酒に強くないために、酔っ払った兵士や、魔王に酒を勧められぬようにするため、という理由もあったのだが、たんに光秀は小さな戦一つに勝っただけで馬鹿騒ぎする兵士を見るのがあまり好きではなかったというのと、もうひとつ、自分が敬愛する魔王は祭りごとが好きであったため、宴会の間は終始機嫌がよく、そこに光秀の好む殺意や、そういうものが完全に欠落するのが面白くないからであった。 自分への褒美はただ、あの混沌とした戦場を与えてくれるだけでよい、間違っても酒など、と光秀は思っている。 血、悲鳴、涙、恐怖に歪んだ表情。 それを存分に戦場で味わった光秀はその感覚に陶酔するために宴会場を離れているといっても過言ではない。 そんな光秀を知っているからか、その場面を邪魔して切り捨てられるを恐れるか、たんに酒を楽しみたいのか、宴会の間、普段は誰も光秀の元へと訪れない。 しかし、今宵は違った。 「帰蝶、飲み過ぎですよ」 声に振り返れば酔いでいくらか足元がおぼつかなくなった魔王の嫁が細い右手に酒瓶を下げて、たっていた。 普段綺麗に結われている髪は少し解れていたし、着物の裾も黒く汚れていた。 その汚れは泥か、血か。満月とは言っても、その色の判別まではできない。その判断をもしなくて済む闇に、光秀はなぜか安堵した。 手を差し出せば、蝶は柔らかに笑い、左手でその手を取り、光秀の隣に座る。 細く華奢な手は、道三の元で、蝶よ花よと育てられていたときのものと比べれば、少し節だった気も、荒れた気もしないでもなかった。 それでも蝶はそのことを嘆くどころか、魔王のためと、魔王に愛されるためと思いこんで満足していたので、光秀としてみればそれでいいのだと、そう思っている。 世間の誰もが蝶のことを不幸な女と評すのも知っていたが、興味はなかった、自分も批判できたものではないからだ。 全ては、魔王に愛されるための自己満足なのだ、ああ厄介な人に惹かれた、そう、光秀は自嘲した。 蝶はそんな光秀の心の内も知らず満足そうに笑うと光秀の肩に頬を乗せ、甘えるように頬擦った。 「ねえ、光秀」 「どうしましたか、帰蝶」 「ねえ、光秀、私、今日たくさん、人を殺したのよ」 「存じてますよ」 「上総之介さま、喜んでくれたかしら」 「それはもう、きっと」 今日死んだのは、浅井の夫婦だった。 遠くにはまだ火と煙がくすぶってい、焼けた臭いが、風に乗ってかすかに届く。 焦土。 それを今日、作ったのは蝶だったのだ。 光秀が優しく肯定してやると、蝶は一層笑いを深くする。 そこに悲哀が混じったのを光秀は見逃さなかった。 昔から、どうも光秀は、蝶の悲しみには弱い、と苦笑する。 「ねえ、光秀」 「はい」 「私、今日、言われたの、濃姫様は地獄に落ちるわ、って」 細い腕が、月の方へと伸ばされた。 白い光に照らされる白い腕はやはり白かったが、光秀は青白いまでの腕に血の色を見る。 深く深く染みついてしまった血の色を。 同類になってしまうのを疎んだのはいつまでだったかもう忘れてしまった。 ただ、そのことに蝶が疵付かないならばそれでよかったのに。 人を殺すことに麻痺してしまった蝶は、それでも魔王の役に立てると幸せそうに笑っていたから、光秀は何も思わずただそれを見守っていただけだったのに。 やはり、うまくいかないものだ。 「この前は、一生私は呪われて生きるのって言われたの、ねえ、光秀、何故かしら、私は悪いことをしているのかしら、みんなそうでしょう、みな、自分の愛する人のために愛する人の望むことをするのでしょう、ねえ、何故、何故私は、地獄に落ちなくてはいけないの」 愛されるために生まれてきた少女。 愛されながら育ってきた少女。 愛されるために尾張に嫁いだ少女。 愛されるために武器をとった、蝶。 それは、なにもたった一人の愛だけを欲して選んだ道ではなかったはずだった。 尾張の姫として。 尾張を護る姫として。 日の本の国を総べる姫として、選んだ道だったはずなのに。 「私は間違ってない、そうよね、光秀、私は極楽に、上総之介様と一緒に、行けるわよね」 人に弱みを見せない蝶の眸が濡れていたのは。 夜陰のための見間違えと断じてよかったのだろうか。 それともそれは、酒の所為だろうか。 光秀はゆるりと目を伏せ、それを視界に入れることをやめた。 「帰蝶」 「何」 「大丈夫です、貴方は私がちゃんと、極楽に送り届けてあげますから」 だから、悪い夢など見ずに、安心してお眠りなさい。 蝶は。 その言葉に低く笑うと、血と酒のにおいを滲ませながら、そうね、と、ゆっくりとした口調で答えた。 +++++++++++++++++ 「約束は守りましたよ、帰蝶」 白い陶器のような頬に指を滑らせながら光秀は業火の中微笑む。 白い頬にいくら濃く赤い炎が映りこんでも、蝶は、その表情筋を微塵と動かさなかった。 蝶の身体は、投げ出された魔王の左腕に収まる形で存在していた。 それは、あたかも愛し合う幸せな夫婦のように。 光秀は、蝶の頬に滑らせていた指を外すと、蝶の左手を取り、それを魔王の右手と繋がせた。 しっかりと、離れることのないように。 「貴女の行く先は地獄かもしれませんが、それでもこの浮世に比べればきっとましですよ」 あなたを苦しめることばかり言う人間は、そこにはいないのですから。 炎に舐められた梁が軋んできたのを見、光秀は踵を返し、本能寺の本堂から出る。 外に出れば冷たい風が、夜の風が、頬を掠め、殺意に上がった体温を下げる。 ざり、ざり、と砂を噛む音を聴きながら、後ろで倒壊していく、本能寺を思う。 そして、そこで死んでいった蝶を、業火に焼かれその弱い体を消し屑のように、この世界から消してしまう蝶を、思った。 その手を放してはいけません、帰蝶。 あなたを責める人がいない場所で、魔王を愛し、魔王のために愛を遂行できる、それはきっと。 たとえ地獄だとしても、貴方にとっては極楽に違いありませんから。 ++++++++++++++ BATTLE HEROSの濃姫の章をやって。 あのゲーム、昔のようにあああああ!とはあまりならないですが、時々あるセリフとか、本当にツボです。 |