※何処かまともな光秀



籠に舞う白墨




明智殿御謀反。
上様、明智殿両者が本能寺で対決し、その後の生死は不明。

家臣たちの報告を聞きながら濃姫は、そう、とだけ答え安土城の一室にこもっていた。
本能寺には既に行ってきたが、既にそこは瓦礫と化しており、何も残っていなかった。
死体も、声も何も。
死神は全てを掻っ攫ってしまったらしい、己が愛したただ一人の人すらも。
しかし濃姫を部屋に縫いとめたのは、信長を失ったことに対して絶望したからではなかった、一つの箱が、床の上に落ちていたからである。
それは濃姫が輿入れしたときに、持って来た私物の一つであり、ある性質から人目に触れぬところにしまいこんでいたものである。
これが自分の持ち物だとわかるのは同じ齋藤道三の下で暮らした明智光秀くらいのものだった。
それゆえだろう、男のことが頭から離れない。
銀糸を不気味に垂らして、青白いほどの肌をして、緩慢に笑うその人が。

濃姫は、一度だけあの男の容姿を褒めたことがある。
その時、光秀は少年でしかなく、濃姫は少女でしかなかった。
その当時、聡明で、機転の利いたあの男を己の父親は酷く重用し、可愛がっていた。
父親は己の軍略の全てを、あの男に託したといって良い。
しかし、家臣はといえば、あの男を酷く疎んでいた。
まず、血色の酷く悪い、肌、色素の薄い、瞳。
そして何よりも、髪の色だ。
銀の脆そうな、髪。
実際掴んだら千切れてしまうのではないかと思うほどに、その髪は細く脆そうであった。
それを縛らず、風に閃かせながら、鍛錬をしている姿は、酷く気味が悪かったのだろう。
しかしそれ以上に大人たちを忌避させたのは、少年が、大人たちが少年を誹謗中傷しているのを目にしても、ただ口角を持ち上げることしかしなかったことである。
己の悪口が囁かれていても、にやりと、肌につかわぬ赤い舌をのぞかせながら嗤う様子に、大人たちは気味悪がった。

死神。

そうささやかれているのを何度か聞いたことがある。
しかし、濃姫はそうは思わなかった。
縁側を通っていたとき、中庭で木刀を揮う姿に、太陽にその銀糸が散る姿に、思わず濃姫は、奇麗な髪ね、と呟いてしまったのだ。
すれば少年は、いつも感情を移さぬその貌に、僅かに驚きと、そして微笑みを登らせた。
その初めて見たとはいっても過言ではない、光秀の人間らしい表情に、なんだ、と濃姫は酷く安堵した。
少年は木刀を足元に落とすと濃姫の傍まで歩み寄り、頸を緩くかしげた。

「私の髪を褒める人がいるとは、珍しいですね」
「ただ白いだけではないの、蝶なんて墨のように黒い髪よ、それと反対なだけでしょう」

おじい様だって、髪は白いわ。

そう続けた濃姫に少年は一層に楽しそうに笑った。

「帰蝶の髪も奇麗ですよ」
「見え透いたお世辞はやめて頂戴、そんな言葉で喜ぶほど私は安い女じゃあないわ」
「ではどうすればあなたの髪の美しさを讃えることができるのでしょう」
「そうね、何万石かの大名様になって、私の為に国を傾けるような美しい髪飾りを準備してくれたら、かしら」
「ふふふ、姫は野心家のようだ」
「美濃をとった蝮の娘ですもの、当然でしょう」

そう自信満々に言い放った少女に、少年は一層に頬を緩めた。

「馬鹿な光秀」

濃姫の持つ、煌びやかな装飾がされた箱がある。
それは輿入れの時に、父親から尾張のうつけを殺す託と共に渡されたものである。
繊細な作りのそれは濃姫の父親が相当の風雅人であったことを示すものであり、濃姫も好んでいるものである。
この中には尾張のうつけを殺すための短刀が入っている。
いや、筈だった。

「本当に、馬鹿なんだから」

箱を開けた中にあったのは、短刀ではなく、一つの簪だった。
酷く凝った装飾が凝らされたそれは材料からも相当な値段がすることは、道三の娘である濃姫にはありありとわかった。
繊細な造形、精智の凝らされた構造。
それは信長から贈られたどんなものよりも、父親から贈られたどんなものよりも美しくそして、高価な品だということがわかった。
送り主が誰かということなど知る由もない。
それでも濃姫は確信していた。
あの死神、否、死神と呼ばれた少年のものであろうと。
それは簡潔に言えば簪など、送ろうと思うものは濃姫の周りにはいないからである。
戦場を駆る蝶として、この軍の中に存在している以上、高級な簪など不要であると皆が思っているに違いない。

少女の戯れを真に受けてしまった少年以外は。

死神は酷く人間らしい存在だったと濃姫は思っている。
ただ少し残酷で、少し狂気に支配されていただけだった。
感情表現が下手で、まっすぐで、それでも歪んでいただけだった。
褒められて、喜んでいた。
誉めようと、必死になってくれていたのだ。
何時も不器用で、うまくできていなかったけれど。
歪んでいたけれど、必死で信長を愛していた。
酷く歪んでいて、周りからは理解されなかったけれど、それでも、真摯に。
今や明智光秀は世間から史上最悪の悪役の称号を与えられている。
主人殺し、今流行りの下克上。
死しても男は世間に疎まれ続けるのだろう。
そしてあの性質を世間に流布され、未来永劫、嫌われ、疎まれ、歴史を生きるのだろう。
これから、ずっと、ずっと。

(それでも)

濃姫はそれでも光秀が実は人間臭い人物だったことを世間に言うつもりはなかった。
まずそれ以前に誰もそんな話を信じはしないに違いないのだろうが。
自分だけが知っておいてやればいいのだろう。
それは自惚れであるのかも知れない、それでも、そう濃姫は確信している。

(ねえ、光秀)

しゃら、と手の中で簪が揺れる。

(本当は、私貴方に髪を褒められたの、嬉しかったのよ)



それは業火に消えた、男の最初で最後の。


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それを恋と呼ぶにはあまりに幼くて。

貴方の髪は奇麗ですよ。

もう血なんかに染まらないでください。
っていう、光秀の祈り。

どうしようこんな正常なの光秀じゃない!笑