此の爪で貴方に私を刻んで






「おや、信長公、血の匂いがしますね」

戦の、出陣前の早朝の廊下。
ふわり、すれ違った瞬間に香った鉄の匂いに光秀は目ざとく足を止めた。
魔王はそんな光秀に特に興味もなさそうに、それでも振り返った。
それは光秀の細く節だった指が信長の衣の上からしっかりと腕をとらえていたからである。
対して力も加えられていなさそうなその風貌ではあるが、ぎりと骨をも締め付けるほどに、正確に信長を捉えていた。
血流をもとめんとするその力に、信長は不快そうに離せ、光秀とだけ吐き捨てた。
その声音に光秀は衝動的に信長の腕を掴んでいたその事実に思い当たり、ああこれは失礼、そういってあっさりと指先を離す。
信長が視線をやった先に追う様に死神も視線を向ければ、そこには赤黒く、五指の跡がついている、光秀がつけたものだった。

「ああ、これは申し訳ない、つい」
「ついで済ますか、たわけが」
「だって貴方が、血の匂いなんかさせているから」

妬嫉してしまったではないですか。

そう口角を歪めると、信長は嘲るような視線を光秀に投げる。
光秀はそのような視線を向けられることには慣れているといわんが如く、鋭いそれに怖じた様子も見せずに、寧ろその瞳に顔を近づけ、頸を傾げた。
興味すらなさそうな水面のような漆黒の瞳の中に口角を持ち上げ、微笑む光秀が映る。
光秀の眼には僅か、狂気の片鱗が兆している。

「それでこんなにのどかな朝に、何処で誰と遊んでいらっしゃったんですか」
「無粋な」

簡略に返答を返した信長に、光秀は眉をよせ、心外といわんばかりに、無粋、と喉で繰り返す。

「貴方を殺すのは私だってずっと言ってるではないですか、それを邪魔する人間こそが無粋ってものでしょう」

至近距離で、見つめあう視線には僅か、殺意が薫っている。
そして、両者ともその視線には慣れていた、寧ろ光秀にしてみれば快感であるといって良い。
びりびりと空気が鳴りそうなそこに、誰かが踏み込めば、今にも殺戮が繰り広げられるに違いないと思うだろう。
それを感じているのか、否か、付近に人の気配はなく、そして庭園に生きる生物や植物までもが時を止めたようにしてそこにある。

一瞬か、はたまた一刻か、先に動いたのは信長だった。

「蝶よ」

信長が唐突に吐いた言葉に光秀は一瞬きょとんとし動きを止めた。
その様子に、わからぬか、と信長は続ける。

「我が飼っている貴様の蝶よ」
「ああ」

なるほどそれは本当に、無粋なことをいたしました。

わざとらしく腰を折った光秀に、信長はふん、と鼻を鳴らすと踵を返した。
ぎしぎしと廊下をいく主を見送りながら、光秀は、蝶ですか、と、呟いた。

(成るほど、あれ、もなかなか、嫉妬深い方ではありますからね)

魔王の一歩後ろを、ついている良妻を演じている姫を思い出す。
穢れも知らぬ美しい女だったがもう、とうに魔王によって汚されてしまった。
否、魔王の為に汚れたが正しいか。
血を知らぬ白い手はとうに赤に塗れ、死の匂いにとりつかれた。
それでも魔王はその嫁を重用するでもない、丁重に捕まえて置くでもない。
むしろ、あの女が、寧ろ重用されているというべき、光秀を馴染みの親しさの裏で妬んでいるのも知っていた。

此の度の戦の成員に姫の名前はない。
それに対する、ささやかな抵抗、というところだろう、あの奇麗な爪をまた魔王の血で汚したのだ。
僅か、布のすれるそれで喚起される痛みで、僅かでも、己を思い出してもらおうと。
あの人間を捨てた魔王に対して、人間らしい儚すぎる望みを託して。

(哀れな人ですね、本当に)

そう、自嘲し、踵を返そうとした。
そのとき、廊下の向こうから、声が、光秀を呼び止めた。

「光秀」

主の声に、顔を上げれば主は戦場でいつもあるような、ぎらぎらと淀んだ殺意を秘めた瞳で、光秀を射抜く。



「出陣の準備をせよ、貴様の望む混沌と殺戮を、用意しようぞ」



その瞬間、光秀は全てを忘却した。
今朝、魔王から薫り、光秀を不快にさせた血の匂いも。
自分がある意味大切にしている、哀れな蝶という存在すらも。

毒だ、と思っている、ある意味密だとも。
この視線に触れるためであれば、これを壊す瞬間を手に入れるためであれば光秀は何でも投げ出せると思っている。
全てを敵にまわし、全てを失った先にこれを手にすることができるなら光秀は全てを捧げてしまうだろうと思うほどに。
どろりと流れ込み、光秀の存在を穢し支配する、その甘美なまでのその瞳に。
光秀は焦がれている、それはこの男と出会った瞬間からずっと。
それは、どんな睦言よりも、確かに、光秀を支配する、全て、だった。






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濃姫に同情したい、光秀。
それでも、感覚が違う、光秀と信長。