かめる




まだ起きていらしたのですね。

声をかければ男はちいさく、ふんと鼻を鳴らした。
日中戦場で見るように月光の下でもその男は酷く鋭く、何かに飢えたような目をしている。
果してその眼が求めるのは天下であろうか、はたまた人間の血や、死であろうか。
そう思うほどに男は酷く多い人間を殺し、消す。
そしてその姿に寸分の迷いすら見えない。
夜半を当に越した刻であろう、城内は刺すような沈黙に満たされている。
あの五月蠅い子供もあの美しい女もいず、男は一人で杯を傾けている。

静かに男の傍まで歩み寄る。
男は顔を上げない、興味がないようだった。
男は光秀が何をしでかしても何も言わない、興味がない。
戦場で不必要に残虐な殺戮をしても、はたまたそこら辺にいた女を強姦し、その果てに殺そうが何も言わない。
根本的に男は他人に興味がない、光秀に対してはなおさらだという認識がある。
殺そうという意志を完全に男は感じ取っているはずなのに、それすら男は黙殺する。 
殺せまいと思っているのか、殺されてもかまわぬと思っているのかは判然としない。
ただ、傍にいることは許されている、それだけでよい。

ゆっくりと背中に回り、その広い背にしな垂れかかる。
しっかりと付いた筋肉とその中でうごめく内蔵の温度が、布一枚の上から確かに感じられる。
この男は生きているのだと、そう思うと胸の奥がくすぐったく、掻き毟りたくなるように甘く痺れるのを感じる。

いつもどおり、しな垂れかかられてすら男は光秀の存在を黙殺していた。
光秀はあえて興味をむけられることを望んでいるわけではなかったが念のため断っておいた。
「あなたの首を絞めて殺すなんて無粋なことはしませんから、美しくも楽しくもない」
男は答えなかった。
本当は嘘だ、と心のうちで呟く。
本当はこの指で彼の首を絞めてしまいたかった。
手の下で確かに蠢く喉仏の感触やら、男の喉から漏れる詰まった呼気だとかそんなものに全て興味があった。
しかし妥協できたのはその身体を引き裂いてこの強く、真っ直ぐで確固な男の痛みに苦痛に悶える表情と、その彼たらしめる全てを引きずり出すことの方が遥かに魅力的に思えたからだ。
それに、と光秀は思う。
もしも警戒などされ、触れることを許されぬことになれば自分は男の生存を何で図ればいいか皆目見当が付かなかったのだ。
自分の手に確かに感じられるものしか信じられない、特にこの男に関しては。
流れる血潮の感触を、その温度を、心臓の鼓動を。

彼の首に頬を擦り付けた。
冷えた頬に確かな熱が返る。
血の匂いの代わりに、鼻先を酒の匂いが掠めた。
ああ、あなたがいつもまとう血の匂いの方があなたには相応しいのに、光秀は少し残念に思う。

しばし、その首筋をじっと眺めていた。
この肌に歯を突き立てたら、その血を舐めたらどのような味がするか。
甘美なのだろうか、ただ他と同じ、錆びた鉄の味なのだろうか。
この肌の下を這い回る赤い血流はその血管を突き破ればとめどなく流れおつのだろうか。
ああ、どうやってこの男を手に掛けようか、興味は尽きない。

考え付く限りの情景を思い描くと光秀は眼を細め静かに笑った。

「信長公」
「どうした、光秀」

男は少し、光秀の方に視線を向けた。
冷たく鋭い眼で、射抜かれる。
ああ、とため息をつく。
なんて魅力的な視線をこの男は向けるのだろうか。

「私が殺して差し上げますから誰にも殺されないでくださいね」

男はまた鼻先で光秀の言葉を散らし、答えなかった。
男は不必要だと感じた会話は次の日にはもう忘却してしまうのが常だった。
今夜の邂逅、光秀がはいた台詞などなおさらであろう。
そうだとしても光秀は何故か酷く安心した。
根拠はない、だが何故か男は死なないだろうとそう思った。
自分の足元で、苦々しく、熱を失う以外の場所で男は死なないだろうという妙な確信が、ある。

信長公、信長公、のぶながこう・・・。

何度も名を呼んだ。
夜の空にそれは拡散し、消え落ちていった。
返事はない。
それでも不愉快には思わない。
ただひたすらに、壊れたかのように、確かめるように、ただ。

ただ、愛しい人の名を、呼ぶ。


澄んだ月光の下、寄り添う影。
しかしその実その影は、さながら、捕食者と、獲物。
どちらもどちらへも転ぶ可能性を秘め、しかしただ縫い付けられたかのように、ただ、そこにあった。