時々感傷に浸ることがある。
昔殺した父親のことや、自分を忌み嫌った母親のことや、そんなことをいつもは忘れているのだが、ふと、記憶の表層に浮き上がってくることがある。
眼球の欠損や、人を切った感触や、血の温度が感覚器官の表面に、浮き上がって張り付くことがある。
例えば、一人のとき。
例えば、夜。
そういうとき、政宗はどうしようもなく、走りだしたくなる。
夜の帳が落ちた世界に、裸足で。

そして、それは、そんな夜。




下の刃




人一人いない、明かりすらない夜闇の中を裸足で、歩いていた。
まだ夏には一歩届かないその地面はひやりと冷たく、頬を、肌を撫でる風は涼しく、気持ちがいい。
そして闇。
空には冷たい月だけが鋭く浮かんでい、それ以外に政宗の足元を照らす光源は一つとしてない。
そして静寂。
虫や、動物が森の中で息をひそめている音以外、その静寂の夜に響くは政宗の腰に下げられた脇差しが立てる金属の無機質な音だけだった。
政宗は、そのような闇の中を歩くのが好きであった。
底知れぬ孤独や、夜が、過去の記憶を表層へと導き、政宗の感覚器官、思考機構、そのようなものを混乱の坩堝へと導くのだが、闇の中を歩くことで、風に肌がさらされることで、それらが周囲の闇と同化していくような感覚がある。
これが、ただの逃避であることも、知っていたが、忘れることができないことも、また政宗は知っていた。
そして忘れてはいけないのだということも、それこそが自分を走らせていることも知っていたのだ。

捨てることは強さではない。
足枷になる場合もあるかも知れない、それでも捨てずに、持ち続けていくこと。
それが、政宗にとっての強さだった。

だから。

「何でてめえがこんなところで行き倒れてんだ」

目の前に倒れる男が政宗は許せなかった。
否、理解の範疇から完全に逸脱しているが正しいだろうか。
月光の下の、正規の道とは少し違う、そこに倒れ伏す人物に、政宗は最大限の嫌悪のこもった言葉で対応した。
それは一度、刃を交えた際に感じた嫌悪そのままだった。
そして、音に聞く反逆の、その印象のせいだった。

「あは、は、なんと、ここは竜の、棲家でしたか」

抜かりましたねえ、と、それは呟いた。
覇気は微塵も感じられない、否、もともとこの男に覇気など感じたことなど一度としてなかったのだが。
寧ろもともとこの男には殺気と狂気しかなかった。
目の前にいるすべての人間を殺す対象として映していた。
自分の敬愛する主人の為に、また自分の欲望のために善悪も正義も主義も何もなく、ただ、人を殺すのがこの男の生きる意味だった。
この男は全てを捨てる。
過去も何もかもを捨ててしまう。
それがこの男を強くするすべであることを政宗は知っていたが、それでも相容れない、そう思った。
特に、敬愛しているように見せた、織田信長を、罠にはめ惨殺したという話を聞いた時には、一層その思いを強くしたものだ。

「てめえは死んだんじゃなかったのか」

山崎のことを言外に匂わすと男は、ああ、そうですか奥州に聞こえるほど十分な日数がたったのですね、なるほど、月も太るわけです、と訳のわからぬことを呟いた。
うつ伏せで地面に倒れ伏す男の顔色は、感情は読み取れない。
しかし噂は正鵠を射ているようだった。
普段、身のこなしが鈍ることを嫌うためか、防具を身につけぬ、それでも矢や銃弾の雨をかけても傷一つ負わない、まさしく死神のような男の体には幾重にも傷が刻まれている。
衣服も月あかり程度では泥なのか血なのかが判別できないが、そのようなもので汚れており、またところどころ裂けている。
そして一番ひどいのは左の腕である。
布が巻かれてはいたが、そこは血で変色し、深く傷ついていることはわかる。
そして、十分な手当てがされていないのだろう、周りの組織の損傷も激しい。
下手をすれば、結構な日数がたっているのも手伝い、感染などから既に絶命してもおかしくない傷である。
死にぞこないとはいえ、織田の残党である、政宗は腰に下げた脇差しに手をかけた。
その瞬間、顔をあげていない筈の死神から、殺気を感じた。

「殺しますか、独眼竜、私を」

ざわ、と空気が揺れた。
地面に倒れる男の髪が、風に舞い、月光を弾き、鈍く銀に光る。
動けない筈だ、そう分かっている。
それでも涼しいはずなのに汗がにじみ、政宗の肌が泡立つ。
政宗も決して素人ではない。
まして相手は腕は赤黒い血に汚れている、そして力なく地面に投げ出されている。
武器も何も持っていない。
それでも、その腕が伸びてくるのではないのか、そう思わせる何かが、ある。
一瞬息を止め、脇差しから手を離す、瞬間、殺気は緩んだ。

「報い、ですかねえ、あは、は、でも、独眼竜、私は、死にたくないのですよ」


信長公と、また刃を交えねばならないのです。


意識が、朦朧としているのかもしれない、そう思った。
魔王は死んだ、それは業火に焼かれた本能寺から死体が見つかった、らしい。
だから豊臣は逃げた明智を討つために山崎に向かったのだ。
そして後任についた。
そうでなければ、魔王が死んでいないのでなければ、それは起こり得ないのであるから。
それでもこの男は魔王の影を見ている。
その手で惨殺したに相違ないのに。
その、執着に、熱意に、狂気に、政宗は息をのむ。

「だから、私は」

腕が、投げ出されていた手が、地面を噛み、爪の跡を刻む。
体を起こそうと明智は腕に力を入れたが、深く傷がついた左腕に力が入らず、左向きに倒れ、そのまま、仰向けとなった。
こけた頬に、前見たときよりも色の青い肌、紫の唇に、死の影を見た。
それでもそこのなかで、唯一、鋭く光る双眸に、政宗は、どこか目を奪われた。
否、惹かれた、魅せられたのだ。
その、魔王だけを映すその瞳に。

捨てたのではなかったのかもしれない。
ただこの男は思考回路が、違うだけなのかもしれない。
狂気に支配されていたが、それでも彼なりの形で、彼は。
政宗がこの国のために全てを背負う覚悟をしたように。
魔王のために、全てを。
そう、思った。
それは何かを大切にする、その形なのかもしれない、そう、思った。
そう、思ってしまった。
この思考が間違いだったかもしれぬことが、いつか訪れるとも限らぬとしても。

政宗は裸足で土の地面をしっかりと噛み、仰向けに倒れる死神の横へと立つ。
そして覗き込めば、はっきりと瞳に政宗を映しこんでいる双眸と、目があった。

「死にたくねえか、死神」
「ええ、死にたくないですねえ、信長公に、会わなくてはいけないのですよ、あの方に、私は」
「そうか、じゃあ」

「竜の棲家に、すまわしてやるよ」

政宗の言葉に、死神は低く、低く笑った。
初めは静かに、最後は哄笑した。
夜の、鋭く冷たい月の下に、静かで深い闇にそれは、響きわたり、そして闇に吸われた。
何も起きない、この男を追ってきた人間がいるはずであるが、この声を聞いて駆けつける気配もない。
まるで、闇の世界がここだけ切り取られているように。
そしてその感覚を手伝うは目の前にいる人物。
薄い胸を上下して笑う姿は、死にかけている人間にしてはどうも不釣り合いで、不均衡であったが、死神と呼ばれるにふさわしい、その姿だった。

「いいんですか、独眼竜、私なんかを奥州に入れて、禍根となりこそすれ、益には絶対になりませんよ」
「I see、だがな、瀕死の敵を殺す趣味も俺にはねえのさ」


「害となったその時は、奥州筆頭伊達政宗、奥州のためにお前を一刀両断として見せるさ」


瞬間、抜いて向けた刃が月光に光る。
目の前に刃を向けると、男は、低く、笑った。
精々、後悔しないようにしてくださいよ、そう、低く。



この男がここにいること、それをまだ、政宗はどこか現実と離れたところから見ている。
目を、閉じてもう一度開いたとき、この男は夢のように、寧ろ死神のように、ここから消え失せているのではないかと、そう思うことがある。
それでも、深い闇のような男が何かを奪い取っているのだろうか。
感傷に浸る回数が減ったのを政宗は自覚していた。
その意味を、感情を、闇を。
政宗はまだ知らない。



夜空に浮かぶ、鋭く冷たい月。



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二人の出会い、的な。
完全に、やまなしいみなしおちなしです。
ただ雰囲気を書きたかっただけで。
すいません。