深く深く 肉体に刻みこまれた全てと 深く深く 記憶に刻み込まれた総てと 然 様なら 傷が消えて来ていた。 確かに断続的にただ痛み続けていた傷が、すっかりと塞がって来ていた。 断たれた繊維も、抉られた組織も、元のように機能を取り戻しつつある。 ただ少し、皮膚に引きつったような跡がうっすらと残っているだけだ。 それをゆっくりと指先でたどる、痺れるような痛みもすでにそこにはない。 (忘れて、しまうかもしれませんねぇ) 光秀は木々の隙間から見える満月を見上げていた。 腕を月光にかざし、そこに血がついていないことを無性に不思議に感じた。 もう、何か月前のことだったかも思い出せなくなっている、もともとそういうことに執着する方ではなかった、じめじめした季節だったことくらいしか覚えていない。 あの夜傷つけられた左腕が、ずっと痛んでいた。 その痛みに、突き動かされるように森の中を逃げた、否歩いたが正しいだろう。 部下の一人が左腕から只管に血を流し続ける光秀の腕に布を巻き付けたことは覚えていた。 その部下も気がついたら傍にはいなかった、その男の顔ももう、忘れた。 元々即物的なものでしか光秀は興味を残すことができなかった、記憶をとどめることができなかった。 触れられなくなった瞬間から、五感で感じられなくなった瞬間から忘却は始まる。 例外なく、全てだ。 (あの生意気な餓鬼も、あの美しい女も、私が切ったというのに) あの夜、泣きながら弓を構えていた少年の甲高い声も。 あの夜、顔面を蒼白にし、それでも毅然と向かってきた女の震えた声も。 既に光秀の記憶機構には残っていなかった。 まるで夢か幻の如く消え去っていた、共にあった時間も、虫を喰ったようにしか残っていない。 今も、もうあの時間が夢であったといっても光秀はそのまま受け入れるだろう気がする。 もう声はない、熱もない、寧ろその前に実態もない、何も感じることのできない記憶という温度も形すらもない曖昧な機構は、光秀にとっては無意味に等しい。 (唯一) もう一度、腕に視線を向けた。 月光にぼんやりと浮かぶは肩から深く刻まれた傷跡。 あの、魔王の振りおろした剣と、撃ちはなった銃によって刻まれたもの。 例えようもない痛みと熱とを齎したそれ。 体が傾いだ瞬間、かいまみえた魔王の不敵な笑みと、炎にまかれていく景観。 あれが現実であったことを、唯一、示すもの。 痛めば思い出せたと光秀は思った。 あの本能寺を脱し、山崎で豊臣の猛攻から何とか逃げおおせた後、断続的に痛み続けるそれだけがあの魔王との決戦を物語るものだった。 屈辱のまま、死に耐えた魔王の表情と、それを見下ろした時の快感。 その光秀にとって最上と言えるだろうその状況でさえ、痛みを伴わぬと思い出せない。 愛憎を持って、傍に居続けたあの男のことでさえ。 しかし、すでにその記憶も遠い。 唯一、あれが現実であったことを示す痛みでさえもう遠ざかっていた。 ずっと痛んでいればいいと思っていたその腕は、一人の男によって掴まれてしまった。 そして、丁重にその傷を消されてしまった。 もう、痛みすらない、記憶の中の魔王すら、遠い。 そのことが無性に悲しく、しかし何所か清々しかった。 (あの人は、子供ですね) 光秀の記憶機構から、体に残る全てから魔王を消そうとしている男を思い出し、光秀は笑った。 何時も気丈としている癖に、どこか幼い男。 表に見える姿は勇猛であるのに、端々に見える幼さと臆病さ。 その男が光秀は嫌いではなかった。 だからあえて魔王が残した傷に、改めて剣を突き立てることもしない、銃を放つこともしない。 痛みを蘇らせるつもりもない。 何時か光秀は魔王を忘れるだろう確信がある、しかし、それでも構わないと思う自分も確かに居るのを自覚していた。 (だって、つまらないんですよ信長公、気付いてしまった、どんなに愉しくても、殺してしまえばそこで終わりだということに) 暇つぶしと言われればそうではある。 でも、その暇つぶしに興じるのも悪くないと光秀は笑った。 何時か、飽きたときか、飽きられたときか光秀は男を殺すだろうという確信がある。 そしてその時は例外なく男のことを忘却する可能性も目に見えてあった。 それでも。 今、五感を以て、確かな質量を以て、光秀の興味を持続させる存在に。 「然様なら信長公、せめて地獄の果てでは貴方の見た未来が叶いますよう」 今、私は、私を楽しませてくれるあの人と。 月光に照らされるは忘却を示す、僅かにひきつった後だけを残す左の腕。 ++++++++++++ 光秀の人生に対する姿勢みたいなのを書いてみようと思って撃沈しました。 光秀はなんやかんやで結局信長を忘れられないといいと思います、無意識の領域の部分で。 そのことに気付いて何とも言えない状況にいる、政宗。 基本的にうちのサイトは話も設定もあんまり繋がっていませんので柔軟に対応していただけると嬉しいです。 |