深海魚の存在理由

体から力が途絶えたとき一番に思ったのは怖い、だったと幸村は言った。
自分が今まで敵に与えていた圧倒的恐怖を初めて知ったとき、怖かったと正直に白い部屋で男は呟いた。
そうだろう、あれはみているほうですら恐怖を覚える、実際あんな恐怖に閉じ込められたら発狂するだろう、そんな自信が柳生にもあった。

開け放たれた窓からは夏特有の風が吹き込み、教室の白いカーテンを膨らませる。
視界にちらつく白い布の端、それに何度目か知らぬ読書の中断を余儀なくされたとき、まだ、練習が始まるには到底早いコートで、黄色いボールが舞っているのが見え、ふとそんなやり取りを思い出した。
白色の世界で、濃紺の髪をなびかせながらラケットを振る男を柳生は文庫本を片手に眺めていた。
幸村精市、王国の最高権力者。
恐怖を司る、誰よりも勝利に魅せられている男。

『耐えられない、そう思ったよ、柳生、もう今すぐにこの頸動脈を切り裂いてしまいたくなるくらいに』
『大袈裟ですね』
『それでも俺の指は首までも持ち上がらなかった、カッターをとることさえできなかった』
『それは、逆に良かったですね』
『本当に怖かった、本当に、俺は怖いとか思ったことあまりないけど、でもあれは、怖い』

光の届かない、深海のような絶望。
四肢が動かなくなった時、そう思った、と幸村は言った。
そう、病室で彼は、苦笑して見せた。
柳生は、幸村のことはとても尊敬をしていたし、敬愛していた、それでも許せないものはある、と思っている。
だから、いままでコートで恐怖に勝てず、散っていった敵を見たとき、自分に降りかからなくてよかったと思うと同時に、見ていたくないと眸を伏せたことすらあった。
安堵した、その言葉に。もう二度と見なくて済むのだろうか、と。自分はああはならないだろうと。
それでも、彼は奪うのだ。
死にたくなったほどの恐怖を知りながら敵を深海へと沈めてしまう。
自分は打ち勝った、だから打ち勝つべきだと、彼は。
彼は。

「そんなの」

神の子なものか。
貴方は悪魔ですよ。


柳生の網膜には深海に沈む真田が、焼きついて離れない。


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真田贔屓ですいません。
お題配布元→星が水没


* * *


骨まで冷えた海の色

「あんた、馬鹿なんじゃないか」

青。
空を仰ぎながら、そう思った。雲ひとつない快晴、太陽の下。
正反対の色だなあと場違いにそんなことを、佐助は思った。
腕にもう、力は入らない、自分が戦場を縦横無尽に狩る、武器を手の中に留めておくことも、いざという時に自分の命を断つための暗器も、敵へと捨て身でかかるそれもなにもできなかった。
否、動かす気がまずそもそもない。敵に心臓を曝したまま、佐助は低く笑った。

「そうかもしれない、ね」

一つ息をつき、目を閉じる。太陽が瞼を透過する。赤、自分の血の色、それが見える。
ねえ、本当に馬鹿だよ、そう、笑う。ねえ誰だっけ、復讐とか馬鹿なことはやめるんだよって言ったのは。
誰が死んでも、私情に支配されてはいけない、そう、諭し続けてきた。
それは幼いころからだったと思う。信玄が死んでも、誰が死んでも、自分を見失ってはいけない、そう、諭し続けてきた。
例え、自分が死んでも。
一番納得させるのに時間がかかった。
自分の仕事は彼を護って死ぬことだから、それが幸せだから、もしも自分が死んでも絶対に自分を見失わないでくれと、散々に。
最後は、それならば、目の届くところで死んでくれと、そう懇願された。
間違っても、野晒しになってくれるな、捕虜になり拷問の果てに死んでくれるな、と、彼は。
それに、それだから甘いっていわれるんだよと、そう返したのに。

太陽は海に没した。
青。
それを聞いた瞬間、視界が真っ黒になり、思考回路が飛ぶのを自覚した。
悔しさ、仕事を全うできなかった悔しさではなく、ただただ。
彼は自分の満足のいく戦闘をして、それで命を散らしただけであったのに。
それを頭はしっかりと理解していたのにもかかわらず、ただ。
自分の私情で、走った。太陽が、奪われた、だから。

まったく、自分は酷なことを彼に強制しようとしていたのだな、と佐助は思った。
言うはやすいが、実際は難しすぎる。
もう一度目をあけ、青い竜を視界に入れた。
あんなに殺したいと切望したのに、不思議だと佐助は思う。

「旦那、優しいよ」
「HA?」
「本当に優しいよ」

青が、一瞬滲んだ。
本当に今更だった、こんなに今更、死の淵でやっと自分は自覚するのだ、嫌というほどに。
この時間がなければあるいは、ただ、何も思わず死んで逝けたのに。


きっと、怒られるのだろう、そう笑みを浮かべながら、目を閉じる。


それは最後に映った空も、彼を奪った色と同じ、色をしていた。

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佐助→幸村




* * *


やわらかい深海

時々、あんたをどっかへ連れてってしまいと思うことがある。

蝉時雨が声をかき消さんとするほどにないている時刻、執務室を出ようとした毛利の腕を長曾我部の頑強な掌が捕まえた。
夏の気候の所為か、どこか鈍く熱を持った指は酷く強い力で毛利の腕に絡んでいた。
隻眼からは、強い視線が毛利に突き刺さっていた、迷いのない、強い眼だった。
それは、部下を率い、瀬戸内を蹂躙するその時の明るく溌剌とした瞳とは違い、何処か闇を滲ませたそれである。

何故だ。

風が、庭の木々を揺らし、蝉時雨が一瞬止む。
昼下がり、空気が太陽に焼けた所為か、どこか世界が明度を落とすその時間。
鬼の、眼。

「あんたは国なんか捨てられねえだろうからな、連れて行くなら、そうだな、海の底がいいか」

質問は完全に無視された。
細められる、隻眼、そこに海が映る。
毛利が愛してやまない、そして鬼が愛してやまない、あの圧倒的質量を誇る、海。
しかし、鬼の目に映るのは光を乱反射する水面ではなく、光の一切届かない、深海だった。

「毛利、あんたの心まで手に入れたかったらあんたを国から解放してやらなきゃだろう」

でもそしたらあんたは廃人みたいになっちまうんだろうなあ。
毛利を、惹きつけていた隻眼が、伏せられる。
そこでやっと毛利は呼吸が許されたような気がした。
額にじんわりと、汗がにじんでいた。
それを毛利は、暑さゆえのものだと、自分に言い聞かせる。

「ああ、でも、死んじまったらどっちにしろ空虚か、さすれば、あるいは」

と、急に腕が引かれ、油断をしていた毛利は、鬼の方に倒れこむ。
海に、引きずり込まれるようだ、そう、錯覚した。
腕が伸ばされ、毛利の身体を閉じ込めてしまう、すれば、深海に沈んでいくようだった。
敵対関係、利害関係、すべてを超越した海の底。
命の墓場。
背中から落ちる、衝撃も何ももたらさない、やわらかい、白い、砂。
色を持たぬ世界。
思考の、停止。
凪。

一瞬だけ、いいかもしれぬ、そう、目を閉じそうになったのを、毛利はかろうじて踏みとどまった。
それは、自尊心だったか、国の主としての意地であったか、それとも本当に命を絶ってもいいと思ってしまった自分への嫌悪だったか定かではない。
それでも、逃れる。
水面から顔を出し、息を大きく吸った。

残念だ。

そう、鬼は目を閉じる。
その表情がどこか満足げだったのを毛利は見逃さなかった。
きっと、もう逃れられない、そう、鬼は判断した。
毛利の心に巣くった白く、暗い深海の、誘惑から。


もしも、死ぬまで相容れることができなかったその時は。
誰も干渉してこない、海の底で。

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瀬戸内。いつも暗いですね。
愛の究極形態=心中。
お題配布元→星が水没