ずっと言えなかった言葉を
今あなたに




時の狭間に消えていた言の葉









「来るなら一言くらい連絡をよこせ」

不機嫌な声が振ってきたと思った瞬間、元親の視界は黒に塗りつぶされた。
元親はソファに預けていた体を起こすと、視界を覆ったものの正体を確かめる。すればそれは毛利のコートだった。

既に時計は二十三時を指している。大手の金融の会社に勤める毛利は残業が多い。日付を跨ぐこともざらである。
年度末ということもあり、最近は帰宅がいっそう遅い。あまり普段から疲れというものを見せない男ではあるが、どうやらここ数週間で蓄積した疲労から食が落ちているようで細い首がいっそうに白く、細くなっているように見えた。
しかしだからといって、体調を崩して仕事に支障を出さない程度には体調を管理しているようだ。そこらへんに関しては昔からどうも抜け目がない。そして可愛げがないところでもある。
対する元親はと言えば、おもちゃ会社で商品の開発をしている。こちらも忙しい職場ではあったが、毛利程ではないため、時々週末は毛利の家に遊びに来る。が、大抵元親が起きている間に毛利が帰ってくることはない。朝、元親の定位置となっているソファで目を覚ますと隣の寝室で毛利が眠り込んでいるというのが土曜日の朝のお約束だった。すれば日付が変わる前に帰りついた今日はいつもよりは早い方であろう。
毛利は欠伸をしながら体を伸ばす元親にコートに次いでスーツのジャケットも投げつけるとネクタイを緩めながら部屋をよこぎっていく。
その手にはコンビニで買ったと思しき、弁当の袋が下がっていた。
元親はそんな毛利に苦笑しながらそして自分に投げつけられた恐らく酷く値段の張るコートとスーツをハンガーにかける為に立ち上がる。そしてそれらを丁寧に掛けながら毛利に声をかけた。

「なんだ、飯なら作っておいたのに」
「そんなこと言われても知らぬ。だから連絡をしろと言っているのだ」
「へいへい」

せっかく作ったが仕方ない、と元親は肩を竦める。料理は冷蔵庫にいれてある。別に今日食べてもらえなかったとしても明日食べてもらえばいい。
そんなことを思いながら定位置であるソファに戻ろうとしたところ剣呑な目をした毛利と目があった。

「長曾我部」
「なんだよ」
「これは何だ」

毛利が指差した先に視線を向けると、そこには一つの花束が置いてあった。
小さい花。白い花びら。めしべと雄蕊のところは黄色く、丸い。
それを寄せ集めた花束がローテーブルの上に鎮座している。
元親はそれを見ながら、ああ、と口の中で唸る。
それは、元親が会社帰りに立ち寄った花屋で買った花だった。

「俺が買ってきたんだ、アンタ今日誕生日だろ」
「そうか、そうであったな」
「だから飯作ってやったのに」
「ふん」

口を尖らせた元親を無視すると毛利はじゅうたんに座り、花束を机の端に追いやった。そして割り箸を割るとごはんを口に運びはじめる。

そんな毛利の後ろ姿を元親はじっと見つめる。
華奢で、小さい背中。そして薄い肩。
そこに、かつての面影が重なった。
重そうな兜。小柄な体を隠す甲冑。よくあの華奢な身体で吹っ飛ばされないものだと感心した、遠心力で操る輪刀。
そして、その身体で支えていた中国という大国と、膨大な数の兵士を。
その面影を、隻眼を瞬きをすることで元親は追い出した。

感傷的になっているのは、きっとあの花のせいだ、と元親は思う。
今朝目覚ましにしているスマートフォンのアラームを止めた際、目に入ってきた文字。それは今日が毛利元就の誕生日ということだった。
気難しい、腐れ縁の知り合い。彼と出会ってからこの先、彼が笑っているところなどほとんどみたことがないし、ひどく冷遇されるのにもかかわらず、元親はこの男とのことを放っておけないと思ってしまう。それは、昔からだ。昔からずっと。
気の遠くなるなるくらい昔から、ずっと。

毛利元就がこの世界に生を受けた日。そうと知ってしまったからには何か祝ってやらなくてはならないと元親は妙な義務感に襲われた。
別に祝おうが祝わなかろうが咎められるわけでもない。それでも、元親は何かをしてやりたいとそう思った。
その毛利に何か施しをしてやりたいと思う感情も、昔から元親が毛利に対して持ち続けている感情で、そしてある意味感傷だ。
さて、何を贈るか。
そうはいっても毛利は物欲もなければ食に執着があるタイプでもない。持ち物は自分が気に入ったものしか使わない。
それならばなるべく、負担にならないものがいいだろう。
食べ物でも、毛利が嗜まない酒でもなく。
そんな時に元親の脳裏にあるひらめきがおりてきた。
贈り物の定番で、後腐れがなく、やがて朽ちてなくなってしまうもの。
たくさんの種類がある中で、元親はらしくない、と思いながら彼の誕生日を司る花なんぞを昼休み、会社のパソコンで調べてみた。
そしてそこに表示された言葉。

丁度いい機会だとも思った。
思ってしまったのだ。
自分の心に巣食った後悔や、懺悔全てを託すのに。
元親はそんなことを思いながら、毛利の背中に言葉を、投げた。

「なあ、毛利」
「なんだ」


「忘れるなんて言って悪かった」


元親の言葉に毛利が振り返る一瞬前。
元親は手を伸ばし毛利を後ろから抱きしめた。
細く、華奢な背中を無性に抱きしめたくなった、というのは口実でただ単に元親は毛利の表情を見たくなかったのだった。

昔の話だ。もっとありていに言えば前世とか言うけったいな眉唾ものな時分の話だ。
毛利と元親は瀬戸海の覇権を巡り争っていた。天下をめぐる争いなど二人にとってはどうでもよかった。ただ、あの美しい海だけを臨んで生きることができればそれで。
しかし、時勢はそんな元親と毛利の思惑も飲み込んで行った。
なによりも中国の安寧を望む毛利が自国を守る為に石田軍に肩入れをした時から。
そして、知らぬ間に己も彼の策略のうちに飲まれた時から。その為に、四国が壊滅させられ、友人を裏切る羽目になった時から。

最後の合戦。瀬戸海を望みながら毛利元就という一人の戦国武将と相対した時、元親は怒りから残虐な言葉を口にした。
この男が傷つくであろう言葉を元親は知っていたからだ。付き合いは短くなかった。だからよくわかっていた。きっとあの世界の誰よりも。

そして思惑通りといっていいのだろう、その時元親は初めて見た。あの氷の面と評された智将の顔が元親の言葉で歪むのを。
驚きと悲しみと、そして絶望がその顔に宿るのを。
あの時、元親はそれを見て嬉しく思った。自分の故郷を壊滅に追いやり、その罪を家康に全て追いかぶせた残酷な男を、忌むべき男を自分の言葉で傷つけたことに。

しかし、そのあと次第と怒りが冷めるにしたがって、自分の言葉がいかに残酷であったかということに元親は気付いた。
その時には、毛利は元親の足元で冷たくなっていた。普段無表情であった顔に苦悶の表情を浮かべたままに。
嘘だとも、言えなかった。言い過ぎたともいうことはできなかった。冥府に召された男にはもう、現の言葉など届かないのだから。

謝る筋合いはないのかもしれない。
それでも、あの男を理解していたのはきっと己だけだった。
安芸の毛利家当主というだけではなく、毛利元就個人として彼と向き合ったのは、おそらく自分だけだった。
そう思うと、元親の頭には後悔ばかりが浮かぶのだった。

本当であれば、毛利の怒りも、悲しみも受け止めるべきなのだろう。それが再び、この世界で巡り合った毛利に元親がとるべき責任ではある。それでも、元親は毛利の感情を正面から受け止める勇気がなかった。
元親は腕に力を籠め、ぎゅっと毛利の腰を引き寄せる。そして肩口に顔を埋めた。
毛利は元親の行動に体を強張らせる。しかし、毛利はそれ以上の抵抗をしなかった。
それは、元親の腕力には自分では敵わないと毛利が悟っているからかもしれない。しかし、同時にそうではないと、元親は思う。
彼は酷く冷酷で、容赦のない人間だ。大切なものを簡単に壊すし、場合によっては奪う。だが、相手の矜持を尊重する部分も持ち合わせているのだった。
毛利は元親の行動と言葉に、呆れたように笑った。

「何を今更」
「キツかったろ」
「貴様に何を言われようが揺らぐ我ではないわ」
「そうかもしれねえ、だが謝らせてくれ」

「毛利、悪かった」

孤独という永遠の闇に閉じ込めたことを。
あの世界で懸命に生きていた男の全てを否定したことを。
感情のままに、一番効果的に傷つける言葉をぶつけたことを。
そして己のとった行動に傷ついた自分を許してもらおうとする、弱い自分のことを。

毛利はしばらく、元親の言葉に何の反応も返さなかった。
そしてやがて、毛利は大仰にため息を吐いた。
それに合わせて彼の体が腕の中で動く。

「痴れ者が」
「・・・・・・」
「四百年前の貴様の戯言など、既に忘れたわ」

何を言ったかも、何があったのかも。
もっと言えば己が何を護り、何に執着していたのかも全て。
全て忘れた。忘れきっている。だから。

「泣くな、西海の鬼」
「泣いて、ねえよ」
「そうか、では手を離せ。弁当が冷める」

そういいながら身じろぎせず、元親のことを受け止める毛利に。
そしてきっとすべてを覚えているうえで、元親のことを許す毛利に。
ああ、あの時代、もっと早くこの男の強さと悲しさに気付くことができていれば、と思わずにはいられないのだった。




四百年にも渡る後悔と仲違い。
それを結ぶは白い、小さく可憐な花弁。
















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