全てを消し去った先
生まれいずる世界が
どうか、幸福に満ちていますよう





最果ての地で眠りにつく者へ









「欺瞞を、暴かれると思ったのだ」

誰かに問われたわけでもない。
それでも気付けば家康の唇からは言葉がこぼれ落ちていた。

本来であれば、そんな呑気に会話に興じるような場面でもない。
というのも家康が立っているのは戦場の、真ん中だった。
さんざめく太陽の下、硝煙満ちる場所。人々の咆哮と怨嗟が渦を巻くその中心。
そこに。両足を踏ん張り、まっすぐに地面に足をおろして、家康は立っていた。
そしてそんな家康の前で一人の男が地面に這いつくばっている。
木々に忍べる様にと保護色を身に纏う、少し橙がかった髪色をした男は
体中に傷を刻まれ、血に塗れ、土に汚れ、荒く呼吸をしている。
苦しいはずだ。それでも男は先刻家康の前に現れた時と微塵も変わらず、まっすぐに家康を睨み付けている。
その男は本来こんな陽光の下で戦いなどしない、真田幸村が忍び―猿飛佐助である。
この長い戦国で、この男が戦の表舞台に出てくることなど終ぞなかった。いつも陰で暗躍し、真田幸村を支えてきた影の男。とぼけた風貌と言動を取ることがあるが、それが見せかけであることを家康はよく知っている。忍びの中の忍び。伝説と呼ばれる風魔に次いで家康がその腕と、そして姿勢を買っている男。それが猿飛佐助である。
しかし、今、その男は今までの主義を捨て、この戦場の真ん中へと姿を現している。
それは、彼が今、真田幸村の忍びとしてではなく、真田の率いる軍の一人の兵としてこの場所にいるからなのだろう。
もっと言えば、私人として。真田という名すら持たぬ一人の男としてここにいるのかもしれなかった。

真田幸村を殺した、 徳川家康という男を断罪するために。

しかし、そうはいっても家康は東軍を束ねる男である。真田の忍びがいくら優秀であるとはいってもそれに敗れるほど弱くもなければ、甘くもない。ゆえに今や彼は満身創痍であった。満足に手足も動かないのであろう。今にも崩れ落ちそうな腕をなんとか突っ張りながら体を起こそうとしている。
そんな男を見ながら家康は目を細める。彼はまだあきらめてはいない。それでもまだ、家康にもう一度立ち向かうにはまだ時間がかかりそうだった。
それならばと、家康は己の言葉を続けた。自己満足だろうと思う。それでもなんとなく、言葉にしておきたかったのだった。
冥途の土産といえば聞こえがいいかもしれない。だが、おそらくこの男自身は特に興味もないだろうことだ。

「真田は、きっとワシを見抜くだろうと思っていた。ワシの欺瞞を、ワシの本心を。そしてそれを口にすると、思っていた。ワシが被った全ての鎧を、真田は」
「・・・・・・」
「ワシはそれが怖かった。真田は信玄公の本当の後継者だ。あの信玄公の目に、ワシは自分の嘘を見抜かれ、それを言葉にされるのが怖かったのだ」

だから、この手で、殺した。

その瞬間、家康の脳裏に幸村の姿が蘇った。
西軍と東軍のぶつかった戦場の真ん中だった。狂おしいまでに様々な思念が渦巻く場所で、額に当てた赤い布を風に靡かせながら、幸村はまっすぐに家康を見つめている。
そこには信玄が倒れたときに狼狽えていた若き青年の影もなく、武田を背負うと、その上で己が歩むべき道を見据えた男の姿があった。
一片の曇りもなく、ただまっすぐに揺らがない男の姿に思わず家康は目を細めた。
美しいと思った。そしてどうしようもなく、怖いとも思ったのだ。
そんな家康の心情を恐らく幸村は短い打ち合いの中で感じ取ったのだろう。何度か拳と槍をぶつけ幸村と家康の間に距離ができたとき、幸村はその両の手の中に在る槍を下ろした。
幸村は戦を離れた場所では酷く鈍い男だ。しかし、流石武士というべきなのだろう、戦の中での幸村は酷く鋭い。小さな躊躇も迷いも、全て掬い取ってしまう。
だからきっと。幸村は家康の心の奥に眠っている、隠していた思いに気付いてしまったのだ。
幸村は少し困ったように眉根を下げながら、それでも優しく笑った。そこに、家康はある男の姿を、そしてその強さを見る。

『徳川殿』
『・・・なんだ真田』
『徳川殿は以前某に『自分に返れ』と仰いましたな』
『ああ、言ったな』
『ですが、某には今の貴公にこそ、その言葉がふさわしいのではないかと思うのでござる』
『・・・・・・』
『徳川殿、貴公には』

―押し殺している本当の思いがあるように某は思えて仕方ありませぬ。

幸村がそれを口にする前に。
徳川は幸村に向かって地面をけった。そして拳を、振りかぶった。それはその言葉を、封じる為に。
家康は、どこかでわかっていた。幸村が、自分を取り戻しあの曇りなき眼で世界を見た時、その双眸は自分の弱さを本心を見出すであろうことを。そしてそれを言葉にするだろうことを。
甲斐の虎が、本当の「強さ」を知る―「力」という強大で絶対なものに振り回されることもなくそれを御することができる虎が、家康という人間の欺瞞をすっかり見抜いていたように。
だから遠ざけた。
自分の望む世界を作るために、己の本心を知るものを、この世界から一人残らず消し去るために。
真田幸村という人間を、東軍に誘うことすら家康はしなかったのだった。

誰よりも、力が絶対だということを知っている自分を。
世を総べるためにはその力を使わなくてはいけないことをわかっている自分を。
その力を行使するという誘惑を制御しきる自信のない、寧ろ恐れている自分を。
そして己の「嘘」で世界を総べるために、己の弱さを知る、もっと言えば己の掲げる理念の一番のつながりである存在を排除せんとする自分を。

己を一番知る己の一番大切で、かけがえのない石田三成という絆。すべてを知ったうえで何も言わず三成に寄り添う大谷吉継という絆。それらと共に、真田幸村という男を。
この世界を、家康の欺瞞で覆い隠すのに邪魔になる存在全てを。

気が付けば、家康の足元に赤い男が倒れていた。
激しい打ち合いだった。家康の体のあちこちは裂け、血が滲んでいた。彼の攻撃を凌ぎ、打倒した結果だろう、両手はびりびりと痺れていた。
体中が軋み、立っているのがやっとな状態。
それでも家康は、笑っていた。
荒い息の下、足元で倒れ伏す男を見下ろした時に家康の心の中に広がった仄暗い安堵に。

と、視界の端で男が動いた。
見れば男は地面に膝をつき、ようやく倒れ伏した状態より回復をしている。
忍び装束についた土を払いながら、男はねえ、と吐き捨てるように言葉を紡いだ。

「徳川の旦那。俺様はどうでもいいよそんなこと。あんたの願いなんてどうでもいいし、あんたが隠したいものも、あんたが本当に欲しいものにだって興味はないよ」

ゆら、と忍びは立ち上がった。
ぽたぽたと、赤黒い血が滴っては地面に吸い込まれていく。

「心底どうでもいい。俺様はアンタの事なんでどうでもいい。もっと言えばさ、天下が誰のものになるかすらも、どうでもいいんだよ」
「そうか」
「でも、俺様が許せないのはあんたが、恐怖から真田の大将を殺したことだ。あの人は、あんたと正々堂々虎の後継者として戦うことを臨んだっていうのに」

そう、男は家康を睨みつける。
そこには微塵の迷いも矛盾もない。だから、武田は怖いのだと家康は思う。彼らは、揺らがない。なんの為に戦うのか、その目的は常に一貫している。押し殺す思いも矛盾もそこにはないのだ。
それを家康は羨ましいと、そう素直に思った。
ふうと、家康は一つ息をつく。

「そうか、真田の忍。お前は真田に自分の望みの為に生きることを促しながら、お前自身は真田の為にしか生きられないのだな」
「生きられないんじゃない、生きないんだよ徳川の旦那。俺はね、ちゃんとそこについては選んでる。選びきってるのさ。そしてあんたと違ってそれこそが俺様の本心ってわけ。まったく俺様もらしくないと思うよね、あんな馬鹿みたいにまっすぐで融通の利かない、そんな主に殉じようとしてるんだからさ」

そういうと佐助は武器を構えた。
家康の手甲にあたった所為か、ここにたどり着くまでに戦った兵たちの所為か、彼の刃はところどころ刃毀れをしぼろぼろである。
しかしきっと、あの刃は全てを切り裂くのだ。虎の牙のように。確実に。強い意志を以て。

「だから、俺様はあんたを殺すよ。刺し違えても。むしろこの刃が届かないとしても」
「いいだろう、真田の忍。ワシはお前の主を殺した業を、そしてお前の罰を背負って生きてみせよう」
「アンタのそういうところが、俺様だいっきらいなんだけど」
「だろうな」

わしも嫌いだ、とは言えなかった。
だが、今更自分の生き方を変えられるほど、家康も器用ではなかった。それに、数え切れないほどの犠牲を背負ってきて今更、それをなかったことにすることなどできない。
それでも進み続ける、それこそが家康の覚悟だ。
家康はゆっくりと息を吐く。そして拳を握ると、足を前後に開き、構えた。


「さあ、来い。真田の忍びよ」


さらば、信玄公、真田幸村、猿飛佐助。
虎の目でわしを見抜く、全ての魂よ。
わしは心を殺し、この世界を統べる。
誰よりも汚れ、孤独な魂で、美しい嘘の世界を。





赤が、散る。
それを見守る天は、
皮肉なことにどこまでも青く、どこまでも澄み渡っていた。















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