あなたに閉じられた世界の果てで
あなたとの未来を希う私たちを
あなたは愚かと、そう嗤うのでせうか





終わらない夢の味は









「信長公、信長公」

暗闇の中、堪えきれず、光秀は呻くように男の名前を繰り返していた。
次いで、光秀の双眸から透明な雫が滴る。はたはたと、地面に落ちては消えていくその滴を、そして自分のなかから湧き上がる温度を、光秀は初めて感じていた。

光秀の唇から零れるは、出会ったその瞬間から、敬愛し、傍に在りたいと願った人の名前だった。
あの人のそばにいるために、あの人にとって自分が意味のある存在で在れるように。
光秀は彼の願いを叶える為だけに沢山の犠牲を積み上げ、命を摘み取り、世の中の摂理を歪めてきた。
沢山の血を浴び、悲鳴を踏みしだいて。世間にその狂気を疎まれ、恐れられても、そんなもの怖くはないというように。
ただ、あのお方の側に侍り、あのお方の作る全てを、焦土の世界を、混沌の世を共に眺めていくこと。
それだけが光秀の心を満たした。まるで、幸福な日々だ。そんなことすら思った。
光秀と、姫橘と呼ばれるだけで、震える程に幸せだったのだ。

しかしその先で光秀はある衝動にふと、気が付いた。それは信長を、己の主人を弑したいという願望だった。彼の傍に在りつづけたいという願いと相反する、感情。
光秀はその二つの感情の間で煩悶した。信長と共に在る幸福と、信長を殺すことで得られる愉悦。だがいくら考えたところでどちらも光秀は選び取ることができなかった。
その二つの未来を思うと光秀は狂うかと、そう思った。心を掻き毟りながら果ててしまいたいと思うそれほどまでに光秀の精神はすり減っていた。

そんな時だった。帝たる足利の言葉を賜ったのは。

(異なる時軸の、貴方)

光秀はその言葉を聞いた瞬間、歓喜に体が震えた。
織田信長という魔王はこの世界にたった一人ではなく、並行する多くの地軸に織田信長がいる。すれば、この軸で一つの願いを叶えても、他の軸に渡ることができれば他の願いも叶えられるのだ。
織田信長を弑逆する己。織田信長を愛し、傍らにあり続ける己。それ以外にも光秀がまだ自覚していないような願いすらもかなえることができる。
ああ、なんて幸せなのでしょう!
そうして光秀は世界の軸を渡った。元の世界にいた信長を黄泉の国へと屠って。彼を殺したいという願望を叶えた次は貴方に愛される世界でともにあるために。そのために渡った世界だった。しかしそこにいたのは。

「貴方を待っていたのは貴方を覚えていない、貴方と出会っていない信長様だったのですね」

声が、降ってきた。
光秀はその声に緩慢に顔を上げる。
すればそこには能面のように表情のない男が立っていた。
陶磁器のように白い肌。若く、聡明な出で立ちであるが、全く覇気が感じられない暗い瞳。
そして額と肩口のところで綺麗に切りそろえられた黒く美しい髪。
男は、元の世界軸で信長に冷遇され続けた柴田勝家はゆっくりと光秀の方へと歩み寄る。

「勝家」

光秀は、辛うじて男の名前を呼んだ。
男は、するりと光秀に歩み寄ると光秀の目の前に立った。そして、昏い昏い双眸でじっとりと光秀をみやる。
かつてそこには光秀に向けた尊敬と羨望の眼差しがあったはずだ。しかし今、勝家が向けるのは、己と同じ境遇に落ちた男を憐れむものだった。
勝家は、その形のいい唇を、つ、と開く。そして言葉を紡いだ。

「私も、叶うのであればただ、あのお方の側にありたかった」
「……」
「王に、なりたいと希う自分など要らない。あのお方の側で、そして愛するお市様の側で穏やかに笑っていたい。ですが、思い通りの世に生きることは難しいのです、光秀さま」

勝家はそう言うと、光秀の前に跪いた。と、周りの暗闇の濃度が一層に上がったような気がした。
揃う、視線。
勝家は、じっと光秀を見つめたまま、続ける。

「あなたほどの方が、全てが思い通りに、あなたの望みどおりになると思っているのだとしたら、それは烏滸がましいことだ。私たちはどの世界に生きるかを選べないのですから」
「・・・・・・」
「信長さまがあなたを覚えていない世界も、貴方と出会わない世界も、もっと言えば信長様がいない世界の軸だってある可能性だってあるのです。それに思い至りもせず、信長様との何れの形の蜜月を望んでいたなんて、余程盲目と化していたのでしょうね」

故に私はあなたに愚かだと、そう申し上げざるを得ないのです。

勝家の言葉に、光秀は両手で耳を塞ぐ。

「い、いやだ。いやだいやだ」
「恐れても目を塞いでも、それが現実なのです、光秀様」

細く華奢な指が光秀の頬に触れた。
冷たく、骨ばった指だ。それが光秀の温度のない頬を包む。
そしてゆっくりと勝家は光秀の頬に自分の頬を寄せた。

「可哀相な光秀様。他の世界があると知ってしまったが故に貴方は迷われるのだ」

全てを忘れたうえで、あなたと私が幸せに生きれる世界があればいいのに。
そう、勝家はとろりとした口調で囁いた。







「光秀」

瞼を持ち上げると、光秀の網膜を眩い光が焼いた。
白い世界。
しかし眼を眇めよく見てみるとそれは光秀がよく参内している我が主の居城だった。
中庭に面した、普段光秀に充てがわれている一室。
青々と木々が生い茂り、風流人の信長にふさわしく庭は美しく手入れされていた。
光秀はそんな景色を眺めながら緩慢に体を起こす。そして首を傾げた。
さっきまで、自分はここにいたのだろうか。ここで午睡をただただ貪っていたのだったか。
どこか、闇の片鱗が頭の片隅にこびりついているようなそんな気がするのだが。
ぼんやりと世界を見やっていると、上から低く、光秀と言う声が再び落ちてくる。

「たわけが。何を呆けておる」
「信長公」

私のことがわかるのですか。

なぜかはわからない。光秀は気付けばそう、呟いていた。
そんな光秀の言葉に信長は眉を顰める。

「寝ぼけておるのであれば捨て置くぞ、姫橘。貴様は長らく我の配下であろうが」
「おや、大変失礼いたしました。どうやらぼんやりとしていたようです」
「ふん」

恭しく頭を下げると、信長は光秀に対する興味を失ったのか踵を返した。
その拍子に、赤い布が眼前をよぎった。

「行くぞ、光秀、勝家」

その声に顔を上げると、傍にひっそりと佇む暗い緑色の甲冑を着た男がいた。
無表情の能面のような顔をした男である。しかし、陽光に照らされたその頬には僅かに、本当に僅かに喜びが兆している。

その男を見た瞬間、光秀は、頭の奥深くに鈍い痛みを感じたような気がした。そして靄のかかった記憶の奥で、この男が何かを光秀に語りかけている光景が浮かび上がってくる。
しかしどうにも思い出せない。
この男がこの陣営で信長に重用されていたかどうかも。この男が記憶の先で自分に吐きかけた言葉も。

「御意」

すれ違う瞬間、男と目が合った。
すれば男は、ゆったりとその口角を意地悪く歪めて見せた。





ーどうです?甘美で幸せな夢のお味は?














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