尊いもの、絶対的なもの、聖なるもの、侵し難いもの
あなたというひと。





Santa Maria










「全く、三成は容赦というものを知らぬなあ」

空は良く晴れていた。
雲はほとんどなく、頭上は青一色で塗りつぶされている。そして天頂では太陽が燦然と輝いていた。
そんな空の下、暖かな陽光が差す豊臣の居城の縁側で、左近は家康と並んで座っていた。
といっても、好きで隣にいるわけではない。朝の鍛錬で傷を負った家康の手当てを、傷を負わせた人物の部下だからというだけで押し付けられたのだ。
憮然と家康の腕に晒を巻く。ともすれば血流が止まる程に強く巻き付けてやりたいと思うが、左近はじっと衝動を抑えた。
家康はそんな左近のことを眺めながら楽しそうに口角を持ち上げている。しかし家康が浮かべる表情は平素の、いうなれば太陽のような天真爛漫な笑顔とは違いどこか歪だった。
それは、家康が腕と同じく、顔にも傷を負っていたからだった。
赤黒く変色したそれは裂傷こそなかったが、擦過傷と共に鬱血をしており、赤黒く腫上がっている。おそらく相当痛いであろう。
左近は顔をしかめながら家康に言葉を返した。

「アンタが怒らせるからっすよ」

指先で薬を掬うと快活に笑う彼の右頬に強引に薬を塗りこんだ。
どうやら沁みたらしい。家康はそこで笑顔を消し去り眉根をしかめた。そのまま小さく呻き痛みに耐える家康の横顔を見ながら左近は今朝の光景を思い出す。
自分の主君である三成が眦を釣り上げ、力の限り家康に打ち込んだその姿を。
事の発端は、朝の鍛錬を行っていた時に発せられた家康の心ない言葉だった。
心無い、と言ったら語弊があるかもしれない。家康はある意味物事の核心を着いたのだ。三成が全く考えもしない物事の本質を。
今日は秀吉が死んだとしたらどうするかという問いだった。昨日は、もし半兵衛のやり方が間違っていたらという問いだった。
そんな光景を左近はため息をつきながら眺めていた。家康が三成を怒らせるのは今に始まったことでも特別なことではない。むしろ日常茶飯事と言っていいだろう。家康は三成が怒ることをわかったうえで、それでも自分の言いたいことを口にする。
婉曲もなにもせずにまっすぐに。普通であれば煙に巻きながら口にするようなことも家康は三成に伝わるように率直に口にするのだった。
あけすけなはっきりした家康の物言いに大抵の人間は好意を抱く。家康のことを自分を飾らぬ裏表のない人間だと好意的に評されている場面に出くわすこともしばしばだ。
しかし、左近はどうしても家康のことを好きになれないでいた。三成と家康のやり取りを見ていれば見ている程、家康はそういうところを逆手にとっている腹の黒い人物という印象に翻る。
端的に言うとすれば、家康の言葉の裏には何か思惑が透けて見える。そして腹立たしいことに、家康はそのような腹の黒さを左近の前では全く隠そうとしない。
左近は憂鬱な気分になりながら、薬箱に道具を収める。

「はい、終わり」
「いつも悪いなぁ、左近」
「悪いと思うなら三成様を怒らせないでくださいよ。アンタの手当てすんのめんどくさいし、後で三成様の機嫌直すの大変なんすから」
「はは、善処する」

屈託のない表情を浮かべた家康に左近はため息を吐く。家康には微塵の反省の色も見えなかったからだ。
また、近いうちに二人は諍いを起こすのだろう。そしてまた自分が駆り出されるのだろう。
さて次は。三成の機嫌を取りに行かなくてはいけない。大谷が執り成してくれていればいいと思うが、残念ながら大谷は不機嫌な三成をからかうのが好きである。恐らくまだ、あの人は腹を立てて憮然としていることだろう。
家臣たちにそれが波及しても、面倒だ。左近はそう思い立ち上がろうとした。
と、その瞬間だった。
家康の手が伸ばされ、左近の腕を乱暴に掴んだ。
驚き顔をあげる。すればそこには、機嫌がよさそうな家康の表情があった。しかし家康の双眸は、全く笑っていない。そこにあるのは探るような、試すような視線だ。
自分の腕をつかむ家康の遠慮ない力に困惑し、なんすか、そう問おうとしたその一拍前。家康は口を開いた。

「なあ、左近。お前は三成と喧嘩をしたりするのか」

ワシと三成のように。
家康の思わぬ質問に、左近は言葉の意味を理解することができなかった。ただ茫然と家康の顔を見つめることしかできない。
そして渇いた喉で、喧嘩、と繰り返す。すれば家康は、深く頷き、そうだと続けた。

「そうだ、喧嘩だ。まあ、喧嘩まで行かなくてもお前たちは意見を戦わせたり譲れないもののために拳を交えることはあるのか」
「…なにいってんすか。するわけないっしょ。俺は三成様の為に命を賭けて働くだけですって」
「三成の為に、か」
「そうっすよ。それ以上のことなんて、恐れ多い」

喧嘩どころか、口答えすらしようと思ったこともない。勿論、三成の何かを否定しようと思ったこともなければそれにつながるだろう発言すらもしたことがない。
というのも左近にとって、三成という存在は触れてはいけない聖域のような存在だったからだ。
あの夜、左近が三成に魅せられたのは主君のために全てを捨てて、全てを賭けるその生きざまに感服をしたからである。
どこまでも鋭く、強靭な意志を、左近は美しいと思った。
そして自分もそうでありたいと思ったのだ。この人のために全てを賭けて、全てを捨ててこの人のために生きることを自分に誓った。彼の命にのみ従い、刃であり続けることを。
秀吉の左に控えるその背中を美しく、尊いものとして眺めながら、あの人に降りかかる全ての厄災を払い続けること。
曇りなくまっすぐなあの人が揺らがないように道を切り開き続けること。
其れだけが左近の生きる意味であり、命を賭けるに値するものなのだ。
譬えあの人が一生、自分の方を振り返ることがなくとも。もっと言えばあの人の双眸に自分という存在が意味のあるものとして映らなくとも。
それが左近の幸せであり、何よりも優先するべきものなのだ。

「三成様は、俺の世界の全てですから」

自分の世界を塗り替えてくれた、そんな大切な人ですから。あの人が求めるものがあるのならばそのために命を奮うのが俺の使命ですから。
間髪入れず、迷いなく答えた左近に家康はそうか、と眉を顰めた。
家康はゆっくりと頭を振る。短い髪がそよ、と揺れた。

「たとえ三成が間違っていたとしてもか」
「三成様が間違える筈がない」
「三成が間違える筈がない、か」

その瞬間、左近は家康の表情に暗い感情がよぎるのを見た。
それは左近に対する嫌悪感ではない。ただの憐憫の感情だった。

「左近。お前は何も見ていないのだな」

否、見ようとしていないのか。と、家康は小さく呟く。

「お前にとって三成がどんなに大きな存在なのかワシにはわからない。だが三成は人間だ、神でもなんでもない。お前と同じ、ワシと同じ人間なんだ。間違えていたら間違っていると教え、違う方向に行きそうになったら身を挺してでも止めないといけないんだぞ」
「そんなこと、あんたに言われなくてもわかってるッすよ」
「わかっている?そうか?お前は本当に分かっているのか、左近」

お前は三成に理想を押しつけているだけではないのか。

家康のまっすぐな視線に、左近は言葉に詰まった。
そんな左近の動揺をよそに家康は左近から手を離すと、悠然と空を仰ぐ。そして意地悪く笑った。

「左近。お前は誰よりも三成のそばにいる。だが、お前は三成と共に『在る』だけだ。左近、お前はきっと三成と共に『生きて』はいない」
「……」
「ワシは三成と生きたい。それがどういう形であったとしても」

喧嘩をして、笑い合って、涙を流し、そしてもう一度笑う。そうして心の声を聴くんだ。そう、家康は右手を強く握りしめる。
そんな家康の言葉に、左近の心は無性に苛立った。
しかしその時、左近の心に兆したのは家康を羨む感情ではなかった。ただ、傲慢だと思ったのだ。三成の内面に触れようとする家康のことを。
左近は自分の中にある動揺を見ないふりをして、小さく舌打ちをした。

「そんなこと、絶対させねえ」
「ハハ、左近はどこまでも三成の番犬なのだなあ」

そこで言葉を切ると、家康は目を細めた。

「なあ、左近」
「なんだよ」
「約束してくれ、この先何があったとしても三成と共に『生きる』ことを」

あの男の全てを受け止めて、共に生きて欲しいんだ。
そう、家康は悲しそうに笑った。











「   」
彼が叫んでいる。
「    」
彼が怒っている。
「    」
彼が苦しんでいる。そして悲しんでいる。失った黄金の光を、太陽の欠落を。
その熱を、暖かさを。
「みつなりさま」
しかし自分の言葉は届かない。彼の耳にはおそらく届いていない。もしかすると、この口からこぼれてもいないのかもしれない。
もっと、いえば。
この声を果たして届けようとしているのかすら。
「   」
彼が涙を流している。
「みつなりさま」
しかし、その涙を拭うすべすら己は持たないのだった。











湿度を持った生温い風が左近の横を抜けて行った。
肌を舐めるような不気味で不吉な風だ。それが大阪へと続く道を抜けていく。
その道の真ん中で左近はただ立ち尽くしている。本当は、前に進まなくてはいけないのだとは分かっていた。それでも左近は動くことができない。

ついさっきまで、左近は明るい道を歩いていた。光が溢れる明るい道を。
暖かい光につい、目を眇めてしまうような。
だが、今左近の前にある道は真っ暗な闇で覆われていた。
それは雨の気配がしているというのも勿論あるだろう。しかしもっと根本的にこの世界は、もっと言えば左近の視界は闇に彩られていた。
左近がずっと大切にしていたもの。常に傍にあった光が、無いのだ。
闇の中に在った自分に道を示してくれた光が。

左近の耳の中には先程、目の前で取り乱した人の叫び声が残っていた。
普段は、凛と佇んでいる人だ。すっと背を伸ばし、まっすぐに己の主が歩んでいく道を見据えているようなそんな人だった。
勿論、取り乱すことが全くないわけではない。誰よりも主に忠実な人は主を否定されることと、主に全てを捧げきった己の生き方を否定されることに対しては容赦をしなかった。
しかし、その感情の乱れさえも美しく尊く見えてしまう程に彼は芯が通っていて美しかった。
故に、左近はどうしても目の前の現実を受け入れられずにいた。
まっすぐに前だけを未来だけを見つめていた人の目が一瞬にして曇り、闇に落ちていったことを。示されている現実を受け入れることを放棄し、過去へと走っていった彼のことを。
本当であれば、押さえつけてでも彼を止めることが左近の使命であっただろう。もしかしたらともに狂うことが彼の傍にいる者の務めなのかもしれない。
しかし左近はそれができなかった。今も、その気持ちは変わらない。夢で在ればいいと思っている。心のどこかで。
左近は、ゆっくりと息を吐いた。だが、それでも自分の中に巣食った恐怖と動揺は吐き出すことができない。
足もうまく動かない。今すぐにでも彼を追いかけなくてはいけないのに、自分の足は縫いとめられたかのように動かなかった。
すれば、隣で同じように彼が消えて行った道の先を眺めていた男が低く唸った。全身を包帯で覆われているためはっきりとした表情は判然としない。それでも男が―大谷吉継が珍しく困惑しているのを左近は感じ取った。

「やれ、厄介なことになった」
「厄介な事って…そんなこといっている場合じゃないっしょ」
「そうよな」
「あの人がいなくなったら、豊臣は、石田軍はどうなってしまうんですか」

証拠に軍は、既に動揺を示していた。
絶対的な主君である豊臣秀吉の死。それもかつて豊臣に在った徳川家康が豊臣を弑したという。
それだけではない。豊臣の命で己らを率いていた石田三成が、突如失踪をしている。
否、失踪は正確ではないだろう。奪われた大阪の城に、死んだ人間を求めて走り去ってしまっている。そしてそこに狂気が宿っていたことも、知っている。
墜ちた、二つの光。
このままでは、軍が瓦解する。行き場を失い、烏合の衆となってしまう。それなのに三成様は。左近が苛立ちを露わにそう呻くと、隣で大谷が低く笑った。

「そうであろうな。このままでは太閤の軍も我ら石田も滅びるであろうな」
「だったら…!」
「左近」

大谷の制するような声に左近は動きを止めた。
大谷はゆっくりとかぶりをふる。

「今はよいであろう、そんなことは大したことでもない」
「大したことないって、刑部さん、アンタ…!豊臣が滅びるんすよ、三成様が愛し、支えてきた豊臣が」
「そうよなあ」
「それを、大したことがないって…!」

左近は思わず大谷に掴みかかった。
それでも大谷はそんな左近の行動を予測していたかのように悠然とした態度を崩さない。
その姿は何もかもを悟った如く超然としており、左近は毒気を抜かれてしまった。
大谷は左近から力が抜けたのを確認すると左近の手をやんわりと退ける。そして大谷はじっと、左近の目を覗き込んだ。

「聞きやれ、左近。ヌシは豊臣が滅ぶことがそんなに怖いか」
「豊臣が、滅びること…」
「そんなこと、ぬしにとってはどうでもよいであろ?ヌシは太閤に対して心酔しているわけでもなかろう」
「…そうっすけど」
「よく考えよ。ヌシは本当は何を恐れている」

大谷の言葉に、左近の脳裏には一人の人物の姿が浮かんできた。
それは、かつてある地で、自分に刃を向けた人物の姿だった。
月光を背負い、激しく打ち合ったのにも関わらず、息一つとして乱さずに怜悧な瞳で左近を見下ろした人。
あの時、左近は心を奪われたのだ。あの透き通った魂に。主のために命全てを捧げるあの簡潔でまっすぐな生き方に。
左近が求めているのは、豊臣秀吉のために生きる、凛としたあの人だ。
どんな逆境に置かれても、あの高潔な精神を失わず、立ち向かうことのできる強さだった。その強さを、左近は三成に求めていた。

「……ッ」

その瞬間、左近は思い知る。自分が、三成の中に一片の弱さも、闇も見出していなかったことを。
自分の中に今兆している漠然とした不安や、悲しみや動揺といった感情を三成は持っていないのだと思い込んでいた。
どこまでも、己を導いてくれるのだと、その足取りは迷わないのだと、そう思い込んでいたのだ。
自分の軽い足取りを鈍らせていたのは、三成の死を恐れていたからではなかった。三成の狂気に触れることでも、あの斬撃の元に伏せることでもない。
左近が心から恐れていたのは三成の弱さに触れることだった。そして左近の心の中にある、あの高潔な三成の像が損なわれてしまうことだ。
出来る事ならば、死ぬまで左近はあの、三成という存在を遠くから眺めていたかった。どんな大きな重責も重圧も、豊臣の為という精神だけで何一つ揺らぐことなく、弱さを見せることもなく支えきる姿をずっと追いかけていたかったのだ。
左近は、足元から這い寄る寒気に、きつく目を閉じ、俯いた。ざわりと、不吉な風が左近の背中を通り抜けていく。
黙り、俯いた左近の肩に大谷は手を置いた。そして宥めるように、ちいさく叩く。

「左近、ヌシの気持ちはよくわかる。我も主も同じ穴のムジナ故。我にとっても三成は光よ。あれが揺らぐ所など、見たくはない」
「………」
「三成をヌシの光と思いたいのであればここで引き返すがヌシの為よ、左近」

あの菫色の星の幻想を抱いて、ここから背を向ければいい。
そういうと、左近の肩から手を外し、大谷はゆるりと進みだした。己の足で駆けることや馬に騎乗することが難しい大谷の足取りは遅い。しかし、揺るぎなかった。

「我は、まだ死なせたくない、アレを。譬え、光を失った三成であっても、な」
「……」
「もし、ヌシが深淵を望みやる勇気があるのであれば三成のもとへ行きやれ、左近」

その先に待っているのはヌシが望む三成の姿ではないのかもしれぬが。
大谷の言葉に、左近は顔を上げた。すれば大谷が双眸をやさしく細めているのが目に入った。
何もかもを見透かす男は、左近にとって三成がどういう存在であるかを理解している。
だから、大谷は左近に安易に三成の元へと走れとは言わないのだろう。
左近は右手を強く握りしめた。気づけば左近の指先は僅かに震えている。恐れているのか、不甲斐なさが悔しいのか左近には既に判断がつかない。
そして、自分が今の三成のことを受け入れることができるのかそんな確証すらもなかった。
それでも。

(三成様を、一人暗闇の中で彷徨わせるわけには、いかねえよ)

自分の世界を切り伏せて、新しい光の道へと導いてくれた人をそのままに背を向けるなんてことは左近にはできない。
届かないかもしれない。今までのように三成のことを見ることができなくなってしまうかもしれない。それは、途方もなく恐ろしいことだ。それでも。
不安を振り払うように、左近は一歩、足を踏み出す。やはり足は重い。それでも一歩ずつ確実に前に進まなくてはいけないと思う。でないといつまでたっても、三成のところにはたどり着けない。

「刑部さん、俺、三成様のところに行きます」
「左様か」
「どうすればいいかよくわからないっすけど」
「万が一うまくいかねばワレが三成と闇に堕ちやる故。任せよ」
「それマジ洒落にならねえっす」

先に行きます。

そう、言い残すと左近は地面を強く蹴り走り出した。
行く手に墜ち行く太陽も、空の端から滲む夜も。湿った風も。
全てを振り払うように左近は自分の持つ力を振り絞り、先の見えない道を駆けた。

「三成様、今行きますから」

もう少し待っていてください。どうかどうか。











「みつなりさま」
拳を打ち付ける。見えない壁の向こう、あの人が叫んでいる。その表情は狂気に魅入られている。それを止めなくてはならないと思う。
「みつなりさま」
血の涙を流し、敬愛する主人の死を認められず叫ぶ彼はさながら幽鬼の様だ。だめだ、そっちに行ってしまっては駄目だ。そのために彼の名前を呼ぶ。それでも彼の声が聞こえない。あなたの思いが、届かない。
「みつなり、さま」
あなたの声が聞こえない。今あなたが何を思っているのか。何を伝えたいのか。何も聞こえない。
だから。
聞かせてほしい。そう、願う。
例えそれがどんなに汚い言葉でも、感情であったとしても。あなたの声を。
「みつなり、さま!」
一層強く。拳をたたきつける。すれば、ついにそこに一筋の亀裂が走った。











部屋から縁側へと一歩出た瞬間、左近の視界は光に満たされた。
何の変哲のない昼下がり。見慣れた佐和山の城の中庭。簡素ではあるが丁寧に手入れがされた樹木。
そこには光が満ちている。鋭く輝く夏の太陽でもなければ、冴え冴えとした冬のものでもない。じわりとした暖かい光だ。
その光に肌が温められるのを感じながらこんな感覚を覚えるのは何日ぶりだろうか、と左近は少し思案した。
ここ最近、左近はずっと室内で眠り込んでいた。数日前までは生死の境を彷徨っていたらしい。意識を取り戻した後も、体を満足に動かすこともできず、鎮痛剤が切れる度に叫び出したくなるような痛みに襲われ、身体を動かすこともままならなかった。
大谷の配慮で空気が籠り、部屋が陰気に満たされてはいけないと、戸は開け放たれていたが空気は届いても光は左近の元までは届かなかったのだった。
否、その少し前からか。そんなことを思いながら左近は肺いっぱいに暖かな空気を吸い込んだ。

そしてそこにはもう一人、中庭に視線をやる人の姿があった。
左近の気配に気付いているのだろうが、その人は振り返ることもなく縁側に腰を掛け、柱に体を預けてそこにいる。
彼なりの気遣いなのだろう、左近が寝込んでいる間も彼はそこにいた。しかし、扉の陰に入るような場所で。左近のちょうど視界に入らないようにして。
銀色の髪、華奢で折れてしまいそうな体。不健康そうな肌の色。しかし、まっすぐな人。
それは左近の唯一の主人である、石田三成その人だった。

「三成様」

隣まで歩を進め、声をかけると、彼の人は緩慢に顔をあげた。眠っていないのかもしれない、何時もよりも一層に青白い肌、骨が浮いたように見える顎。しかし目の前の人の頬に暗い影でも、血の涙でもなく、暖かい日の光が差していることに左近はただただ嬉しく思った。
そんな左近とは対照的に三成は不安げに瞳を揺らせた。そして彼にしてはおずおずと歯切れの悪い様子で、さこんと、名前を呼んだ。

「もう、傷はいいのか」
「はい、もう大丈夫っすよ」

この通りっす。
左近はそういうとまだ、治療のために布や薬があてられている手や足を軽く動かす。
一部、まだ布が巻かれていたり、傷が塞がりきっていないために動きにくい個所はあったが、後々禍根が残りそうなほどにうまく動かない場所はない。
後は実戦で体慣らせばすぐまた戦場で戦えます。
そう、左近が笑うとそんな傷を左近の全身に刻んだ張本人である男―三成が複雑そうな顔をしながらも小さく安堵の息を吐いた。

「そういう、三成様は大丈夫っすか」
「私は問題ない。もうほとんど塞がった」
「そりゃよかった」

左近同様に三成の着物から覗く細い腕や、足には怪我を手当てしたような跡があった。
恐らくそれは三成に刃を向けられたとき、殺されかけた左近が三成の攻撃を凌いでいた時分についた傷だろう。
自分が三成に負わされたこの傷と、三成が負った傷。
それがあの出来事が夢でも幻でもなんでもないことを何よりも雄弁に語っていた。
そしてあの時、とった選択も。

左近は目を閉じる。すれば網膜にあの日の光景が蘇った。

あの時。逃げたくなる足を叱咤し、辿り着いた佐和山の城は雨に濡れていた。
そこに立っていたのは闇を、その深淵を眼に写した三成だった。
三成はあの時、自分にかけられる都合の悪い真実を全て虚構にすり替え、挙句の果てには左近のことまで認識をできていなかった。
死ね。と、今まで一度も言われたことのない言葉を吐きかけられ、左近は途方に暮れた。寧ろ生きろと、そう言葉を賜っていたというのに。
しかしそんな左近の動揺をよそに、三成はその駿足で一瞬にして左近との距離を詰め、刀を抜く。
鋭い、刀の切っ先が左近の眼前で閃いた。
そんな三成の攻撃に左近は動揺が先立ち、うまく刀を抜くことができず、慌てて鞘でその斬撃を受け止めた。がき、と鈍い音が響いた。
その時だった。三成の攻撃を受けたとき、左近の中には三成の感情が流れ込んできた。
つらいかなしいくるしいにげたいこわいくるってしまいたい。

―たすけて。

引き裂かれそうなほど激しく叫ぶ切実な感情に、左近は呆然とした。
そしてようやくそこで理解が追いついたのだった。三成も左近と同じようにたった一人の人間であることを。
感情に振り回され、心を乱し、喜び、涙を流すそんな一人の人間であることを。

『三成は人間だ、神でもなんでもない。お前と同じ、ワシと同じ人間だ』

あの時、家康が言った言葉の意味が今ならわかる。
家康の言葉の通り、左近は今まで三成のことを己と離れたところに存在するものとして見ていた。
自分の過去の世界を打ちこわし、新しい命を与えたそんな、絶対的な存在。それが左近にとっての三成だった。この世界の全て。そして自分の全て。
またあの純粋で高潔な精神が自分と同じ俗的な場所に存在するはずがないだろうと思い込んできた。
故に、左近は三成の心の内に触れてこなかった。否、触れようとも思わなかったのだ。
もっと言えば、左近はずっと耳を塞ぎ続けていた。自分の抱く三成という絶対的な存在が崩れないように。
彼の悲しみや嘆き、そういったものに代表される彼の弱さや、人間らしさを見なくて済むように。
ズルかったのは、イカサマをしていたのはきっと自分の方だった。
彼の強さを神聖化することで、一人にし続けていたのは自分だったのだ。
だから左近は、あの時、三成の感情に触れた時、全てを受け止めることに決めた。三成の心の叫びも、弱さも何もかもを。それのことによって左近の中の「石田三成」の像が崩れてしまうとしても。
両手を広げて。この体で受け止めることのできる、全てを。
今まで放棄してきた全てを取り戻すために。

「ねえ、三成様」

ただ共にあることに満足をしていた。
しかし、それでは三成と生きるという本当の意味からは程遠かったのだと今ならわかる。
だから、もう恐れない。
三成と共に生きるために。耳を塞ぐことも目を塞ぐこともせずに。左近は手を伸ばすのだ。何度でも。その手を払い落とされても、切り落とされても。最後の瞬間まで間断なく。
そして彼の声は全て拾う。伸ばされる手は全て掴む。もう見逃さない。絶対に。

「俺、どこまでも付いて行きますから」

左近は体をかがめ、手を伸ばし三成の指先をそっと握った。初めて触れた三成の指先はやはり、思ったとおり酷く冷たい。
それでも、ゆっくりと左近の熱に馴染んでいくその指先に左近は目を細める。
三成は左近に視線を向けた。美しい双眸には今、ただ左近だけが映っている。まっすぐに絡み合う視線。その中で自分が柔らかく笑っていた。



「許可してください、三成様。最後の瞬間まで貴方と共に生きることを」



この先どんな未来が待ち受けていたとしても。
その未来がそれだけ深い闇で覆われていたとしても。
もう、離さない。見失いはしない。貴方を。
貴方と共に生きると決めたのだから。











「さこん」
声が、聞こえた。
「さこん」
ぱきりと、何かの破片が足元で砕けた。
「さこん」
手が触れる。
「さこん」
熱が伝わる。
「はい、みつなりさま」
声に、彼が小さく笑った。


「やっととどいた」














material:Sky Ruins