『何故じゃ清興』

闇から手が伸ばされる。暗い闇から次々と手が伸ばされてくる。
逃げなくてはいけない。これらに捕まったらどこか彼岸へと連れて行かれるだろう。
震える足を、怖気出しそうになる心を奮い立たせ、ただ走った。

『何故我らを助けなんだ。助けずとも共に戦わなんだ』

暗い夜、誰もいない暗い森の中、家の土間の暗い場所。
それらの声は何時でも追いかけてきた。その声の中をただ謝りながら目を閉じたままに走り抜ける。
振り切っても振り切っても振り切れない。故にただ立ち止まることも振り返ることもできずただひたすら走り続ける。

『清興』
『清興』
『清興』

ああ、この手から、声から。
己は一生逃げ続けることしかできないのであろうか。





その光の矢が暗闇を切り裂いたら










「……ッ」

左近は何者かの気配を感じたような気がして、目を覚ました。
首筋にはじっとりと汗をかいており、髪は幾筋か頬に張り付いていた。早鐘をたたく心の臓を持て余しながら、左近はゆっくりと室内に首をめぐらせる。その際、枕の側に置いてある刀に手を伸ばすことを忘れない。
しかし、やはりといっていいだろう、室内には他に誰もいなかった。
精神を研ぎ澄ませ、天井裏などにいないかも探ってみたが、やはり気配は感じない。
左近は小さく舌打ちをする。

刀を床に置くと左近はもう一度布団の上に寝転んで天井を見上げた。
しかし、自分の鼓動の音が大きく体の中を響くだけでどうも眠気がやってくる気配がない。
何度か寝返りを打ち、布団に顔を押し付け暗闇を作るが神経が覚醒をしてしまっているようで、普段ゆるゆると訪れる睡魔の影も形もない。
恐らく今晩はもう眠れないであろう。そう左近はため息をつく。

(しゃーないか)

左近は布団から跳ね起きると羽織と賽を握る。賽を指先で弄ぶと、左近は気分が少し落ち着くのを感じた。
そしてそのまま、羽織に腕を通すと、廊下に出る。
目指すは行きなれた鉄火場だ。鉄火場に出かけることは三成に禁じられている。それを承知したうえで出かければ主に怒られるのは必定だ。
しかし、折角戦に勝った夜に眠れぬ体を持て余すのも勿体ない。それに主君に叱られるのはもう既に慣れている。三成の命令には基本的に絶対服従の姿勢をとっている左近ではあるが、賭博に関してだけ言えば完全に無視をしていた。
三成は左近を叱りはするが、それを原因に左近を断罪したり、解雇したりといった行為には走らないからだ。
融通を聞かせてくれる見張りが担当している出口はどこだっただろうかと思いながら左近は冷えた廊下を進む。

戦の後の日、時々このようになることがある。夜、何かの気配を感じ突然と目が覚めてしまうことが。
そして今日は、大きな戦が終わった夜だった。
三成に随行し、豊臣のために戦った。たくさんの人が死んだ戦だ。
おそらく、それが引き金になっている。何とも情けないことだ。左近はそう自嘲した。

と、ある部屋の前で左近は足を止めた。
場内の静まり返り闇に沈みきった中でその部屋だけ僅かに光が漏れ出していたからだ。
左近はそのことに驚き、そして同時に舌打ちをした。
それは左近の主である三成の部屋だったからだ。
この部屋の前を通れば、人の気配に敏感な三成のことだ、左近が通ったことに気付くだろう。そして左近の部屋から厠に行くときに自分の居室の前を通らぬことも。
そしてそんな左近が、どこに行こうとしていたかも彼は悟るに違いない。

(マジでツイてねえ…)

鉄火場に行ってから怒られる分には構わないが、行く前に怒られ、結果出かけることもできない状況に追い込まれるのは本意ではない。
このまま戻るか。そう思うが左近は戻っても自分が朝まで恐らく一睡もできぬだろうことを思い、すれば暇潰しに三成の部屋に行くのも一興かもしれないと思いなおす。
とにかく、今はあまり一人でいたくなかった。
左近は溜息をつくと、そっと雨戸に手を添えた。

「三成様、起きているんすか」
「左近か」
「入ってもいいっすか」

構わん。三成の声がするのを待ってから左近は戸を開ける。
三成の部屋は酷くがらんとしていた。物への執着がない三成は、最低限のものしか手元に置いておかない。佐和山の城でさえそうなのだから、逗留先の豊臣の居城の三成の室には輪をかけて何もない。
僅かな明かりに照らしだされた室の中には一組の布団と、執務用の文机しか置いていない。
そんな部屋の中で三成は文机につき、何か文をしたためていた。
恐らく昨今戦続きで滞っていた執務の処理をしていたのだろう。三成は左近に一瞥をくれると、また手元に集中する。
三成の性格を反映したかのような神経質そうな文字が白い紙に並んでいく。

「また鉄火場にでも行こうとしていたのではあるまいな」
「まっさかー。三成様こそ、まだ起きていたんすか。明日も用事あるっしょ、早く寝ないと体力持たないっすよ」
「その言葉はそのまま貴様に返そう」
「俺はヘーキっすよ」
「貴様こそ何をしていたのだ」
「いやーちょっと寝付けなくて、空気を吸いに」

勝った日ってこう、精神が高ぶるじゃないっすか。それだけですよ。
そう笑うと、三成は眉を顰め、秀吉様の軍にいればそれは当然だ、慣れろと三成は返した。
そのまま黙って三成は手を動かし続ける。左近を追い出すような言葉を続けることはなかった。すれば帰ろうが、このままここに居ようが気にしないということだろう。
追い出されなさそうな雰囲気をいいことに左近は後ろ手に戸を閉めると、部屋を横切り三成の座る文机の傍の壁に背中を預けるようにして座った。
そして三成が手を動かすたびに長い前髪がさらりと流れる様を眺めながら膝を抱えそこに自身の頬を乗せた。

(今日もこの人の隣にいたんだよな)

今日も石田の先方として、左近は戦場に立った。そして豊臣のために、否石田三成のために左近はその力を存分に発揮したのだった。
物量でも何もかも豊臣の方が相手を勝っていた。それでも、対した相手は長年豊臣に対して反発を繰り返した相手だった。
『豊臣に刃向ったことを後悔させてあげよう』
半兵衛は、出陣の前、三成と左近にそう告げた。三成が半兵衛の命を違えることを望むはずもない。そのため、左近は命令の通り、その場所にいた人たちを切って捨てたのだ。
沢山の人を殺した。血が、たくさん流れた。地面に染み込んでいくそれらは、左近が斬った人たちの命そのものだ。
左近は三成の隣で戦場をかけることができたことを、そして彼の望む戦果をあげられたことに満足をした。
そして、見なかったふりをしたのだ。地に倒れ伏した兵士たちから左近に向けられていた濁った双眸を、怨嗟というべき言葉にならぬ恨みの感情を。そしてその魂を。

(やべ、)

ぞわりと、背中に寒気が走った。そして昼間、左近が見なかったふりをした光景が一瞬にして左近の思考を埋め尽し、左近のことを取り囲んだ。
恐らく、先ほど一人で寝ていた時に感じた気配も、この断片なのだろう。左近は歯噛みをした。
ちらちらと揺れる灯火が作り出す闇が、形を作っていく。初め、曖昧な形であったそれは次第に具体的な形を形成していった。
そう、それはかつて見殺しにした左近の郷里の人間の姿だった。
あの時のことを、あの時に死んでいった人たちのことを左近は今でも幻に見る。
血を流し、涙を流しながら、そして叫び声をあげながら燃え盛る炎に飲まれ、死んでいった人たちのことを。左近に対して最後まで助けと恨み節を呟きながら、死んでいった人たちの怨嗟を。
捨てた筈の過去だった。そう思い込んでいた。しかし、彼らはしきりに左近を責めるのだ。
嘗ての名前を捨て、三成の右手として彼の前に立ちはだかるすべてを切り捨てている左近に対して。
嘗ての左近の村の人たちが死んでいったのと同じような人たちを作り出し続ける左近に対して。
なぜ、と。
なぜ、お前はその男のために刀を取るのに我らの時は立ち上がってくれなかったのか、と。
憤怒の表情を宿し、血に塗れたそれらは繰り返し左近を責める。

そんな下らぬ幻影に過去に捕らわれそうになる自分の弱さを左近は酷く疎んでいた。
しかし、強くなればなるほど過去においてきたはずの後悔は頭をもたげ、左近を蝕むのだった。
部屋の影の中から、庭の木の暗い影の中から数えきれない目が左近を見やる。
そこに恨みを確かに宿して。
今の人生を選んだことには後悔はない。寧ろ幸福だと思っている。
だが、あの時、自分にこの力が、あの人たちのために賭ける命を持っていればと、時折思ってしまうのもまた事実だった。

(ああ、だめだ)

ぎゅうと膝を抱き込み、左近は自分の中の感傷に耐えようとする。
じわじわと広がる恐怖と後悔。それに飲まれそうになる。幻が、左近をのみこまんとする。
そんなものに飲まれている暇など、ないのに。自分は主のために心も一つの刃にして走らねばならぬというのに。
と、その瞬間。かた、と筆が畳に落ちた音がし、左近は顔を上げた。
すれば三成と目があった。

「どうした左近。まさかどこか痛むのか。今日の戦で怪我をしたのであればいえ、虚言は許可しない」

三成は左近の前に歩み寄ると、頬に指を滑らせた。
細く、骨ばった冷たい指。それが左近に触れる。
その指先に自分の弱さを探り当てられそうで、左近は慌てて三成の指先を自分の手で掴んだ。

「だ、大丈夫ですって。ほら、ほらね」
「……」
「痛いとこがあったら俺大騒ぎすると思いません?でしょ?」
「…それならばいい。秀吉様のために戦えなくなるなど許さない」
「はいはいわかってますよーっと。ほんと三成様ってば秀吉様しか見えてないんだから」

情けないところを見せてしまったことを悔いるように左近はおどけて見せた。

「三成様には怖いものなんてないんでしょうね」
「ない。あるとすれば秀吉様が罷られた世だけだが、そんな世界など私が許可しない」
「へえ、魔王も、梟雄松永も?」
「無論だ」
「じゃあ、例えば…人ならず者でも?」

左近は口にしてからしまったと思った。
左近の言葉に、三成の双眸が剣呑な色を湛えたからだ。
左近は自分の考えを軽率に口にすることがある。そういうところをよく左近は大谷に窘められていた。
特に、自分個人の感情を口にすることを戒められていたのだった。特に三成に対して。
その言葉を勿論逸脱することはあったが基本的には左近は守るようにしていた。特に、弱さといったものを左近は三成に見せないようにしていた。
というのも左近は初めて三成に会ったとき、三成に自分の弱さを見られているためだ。
しかし、今日はどうもいけない。口が滑ってしまったようだ。
いまのなしっす!そう口にしようとした瞬間。三成は僅かに笑った。
そして三成は左近が掴んでいた手を解くと、ぐっと左近の着物の合わせの部分をつかむ。
遠慮のない力に左近の息が詰まる。しかし気にした風もなく、三成は左近のことを馬鹿にするような、それでいて全てを見透かしたような視線で左近を捕まえたまま、続けた。

「左近」
「は、はい」
「そのようなものは存在しない。私が生きるのは秀吉様が生きるこの世界以外にない。それ以外の世界など存在することすら許可しない」
「……ッ」
「お前もそんな下らぬ妄想に浸る暇があるのであればこの今に秀吉様のために何ができるかだけを考えろ」


「貴様がどんな過去を生きたかなど私には関係がない。だがもし過去の妄念に捕らわれるのであれば切り捨てろ。過去の亡霊に耳を貸すことは私が許さん」


三成の言葉に左近は目を見張り、そして笑った。
三成らしい、とそう思う。そしておそらくこれでも左近を励まそうとしてくれているのだろう。
不器用だがまっすぐで強い三成の言葉に左近は自分の中にあったわだかまりがすっとほどけていくのを感じた。
三成は左近の表情の緊張が緩んだのを確認したのか話は終わったといわんばかりにあっさり左近から手を離し立ち上がる。
左近はまっすぐに伸ばされた三成の背中を、まぶしく思いながら目を細めた。

「集中が切れた、私は寝るぞ左近」
「え、まじっすかもう寝るんすか」
「さっき早く寝ろと言っていたのは誰だ。左近、貴様も部屋に帰れ」
「えー」

三成の言葉に左近は眉根を下げる。落ち着いたとはいえいくらなんでもすぐに眠れるほどには落ち着いていない。
今部屋に帰ったら確実に朝まで眠れない自信がある。
大谷の部屋に行くという選択肢もあるが、大谷はきっと左近をからかって遊ぶだろうことが目に見えている。
左近は一瞬悩み、駄目元で三成に懇願した。

「三成様、今日一緒に寝ちゃだめですか」

今日だけでいいっすから。
そう言って頭を下げる左近に三成は、眉根を顰めた。
しかし、ため息を吐くと三成はぶっきらぼうに小さく呟く。

「……勝手にしろ」

三成は羽織を脱いで布団の中に潜り込んだ。それでも少し端によって左近が入れるように場所をあけてくれる。
まさか肯定してくれるとはという驚きに加え、そうした三成の優しさに嬉しく想いなが左近も一緒に布団の中に潜り込む。華奢な三成とはいえ、流石に二人で入るには狭い。それでも左近はひどく満ち足りた気持ちになる。
三成は左近に背中を向けて早々に眠り込んでしまった。そんな三成の背中を見ながら左近は仰向けに天井を眺める。
同じような作りで、しかし僅かに三成の方が広い部屋。しかし、何故か満ちる闇の濃度が薄く感じる。

(やっぱ、三成様はすげーや)

世間から見れば一番、豊臣の中で三成が闇に近いと思われているだろう。死に近いとも。
しかしそれは違うのだ。三成は誰よりも生きることにまっすぐだ。過去にも後ろ髪を引かれずにまっすぐに走っていける。その命を賭して。
自分よりも何倍も三成は強い。闇など切り裂き豊臣の御世を築く。そして自分を導いてくれる。これから先も。
そして自分はそんな彼にどこまでも付いて行くのだ。この手足が?げ、走ることができなくなるその時まで。自分の中に賭けるこの出来るものがなくなるまで。曇りのない気持ちで。
この人とともにある限り、きっと自分は闇に捕らわれない、そう思うから。

(もう、きっと大丈夫っしょ)

過去の幻も、彼岸の魂も。
怖くない。
そう思いながら左近はゆっくりと目を閉じた。


死者の手も、声も。
この身にはもう、届かない。











material:Sky Ruins