※三成が家康に殺された後の話。
 三成が死んだあとの世界で左近が生きて行けるかがテーマ。


   





貴方が背負った言葉のままに生きられたら、仕合せになれたのでしょうか。





あなたを飲み込んだ世界の果てで








城下町に入った瞬間、喧騒が二人を包んだ。
極彩色の提灯に、賑やかな囃子。そして人々の笑い声。
すれ違う人もいつもよりはいくらかしゃれた格好をし、女子は紅をさしている。
父親と手をつなぎたのしそうに走る少年。大人は酒を片手に道端に置かれた椅子に座りながら語らっている。
若い男はお気に入りの御嬢さんの手を引きながら、いい人がいない男衆は友達同士で取っ組み合いをしながら。それぞれ幸せそうに笑っていた。

今日は加賀の年に一度の祭りの日だった。
前田領には国主と同じく祭りが何よりも好きな人間たちが集まっている。そのため、祭りの数日前から町民たちは仕事を放り、祭りの準備に勤しんでいた。
元々は豊作を祈るための形式ばった祭りだった。しかしそれを家督を継いだ祭り好きな慶次と利家が自分たちが楽しく、そして民たちが楽しく過ごせるものにと変えたのだった。
長く続いた習慣を変えることについて初めは戸惑っていた様子も見受けられたが、慶次と利家がしっかりと道筋を立てたこともあり祭りは年々派手さをまし、そして賑やかしくなっていた。
それぞれに役割を果たし、農作業や戦の合間を縫って準備をする。そうして出来上がった祭りは例年通り、盛況に包まれている。

町の中央の広場にでると、その中央には高く組まれた櫓があった。
その上では利家がいつものように上半身裸で街の人に混じって太鼓をたたいており、その櫓の周りを老若男女問わず様々な人が取り囲んで楽しそうに踊っていた。
不器用な利家が叩く太鼓は他の物の叩く音より半拍遅れており、広場からは不満そうに利家を非難する声が響く。
それに業を煮やしたまつが利家から撥を取り上げ太鼓をたたきだすと、広場には歓声が上がった。
しかしそれも祭りには付き物の出来事で、催事である。利家もばつの悪そうな表情を浮かべながらそれでも楽しそうに笑っていた。
櫓の上で太鼓を叩く人にもその櫓の下で太鼓や笛の音に合わせ踊る人々の間にも眩しいほどの笑みがあふれている。
慶次はそんな人たちに声をかけながら隣に立つ男に笑顔を向けた。

「な、どうだい」

慶次の隣に立つ男は呆けた顔で天まで伸びる櫓を見上げていた。信じられないといったように開いた口に慶次はこっそりと笑った。
無理もない、と慶次は思う。
もっと上品で、金のかけた祭りならこの日の本、幾らでも見つけることは出来ようがこれだけ領主と民が一緒になって馬鹿騒ぎするような祭りはそうそうないだろう。
ましてこの男―島左近が仕えていた主などは華美な世界に全く興味を示さず、その暮らしは質素だったと聞く。
そんな男の収める国ではこんな賑やかな祭り催されなかったろうし、そんな主の傍に常に仕えていた左近が彼が好む賭博の為ならまだしもわざわざ他国の祭りを見るために出かけたとは思えない。
やがて、左近ははあ、と感嘆のため息を吐く。
そして僅かに頬を紅潮させながらゆったりと口角を持ち上げた。

「こんなすげーの初めて見たよ」
「だろ?傾奇者前田慶次が治める国だぜ。祭りの煌びやかさで他国なんぞに負けちゃいられねえさ」
「いやーほんと言葉もねえってこういうの言うんだな」

左近は隣で楽しそうな表情を浮かべている。その両目には色とりどりの光が映り、楽しそうに笑う民が映っている。
穏やかに表情を緩める左近の横顔を見ながら、慶次は目を細めた。


(ちょっとは、落ち着いたってとこかな)


二か月ほど前にあった先の戦の時の左近を慶次は思い出す。
天下の趨勢を決した天下分け目の大戦だった。消耗していた西軍を大量の戦力で一気に押しつぶした戦だ。
全軍を投入してきた石田軍に対して東軍も家康のところまで刃が届かないよう、多くの軍を投入し、石田軍の行く手を阻んだ。
しかし、石田は現れた。おそらく彼の家臣が彼の道を切り開いたのだろう。まっすぐな迷いない切っ先が家康に伸びた。
咄嗟に家康を護ろうとした東軍諸将を家康は制すと、その刃を迷いなく受け止めた。

空間が裂けてしまうのではないかと思うくらいの激しい打ち合い。それを東軍の武将と家臣は呆然と見守っていた。
永遠に続くのではないかと思うほどに二人の一騎打ちは続いた。
しかし、それは唐突に終わりを迎えた。
石田の切っ先が一瞬それた。その瞬間、家康の容赦ない拳が石田に入ったのだ。
時が、一瞬だけ止まったと思った。そして再び時間が動き出したとき、体が傾ぎ地面に倒れたのは石田だった。
戦場に訪れた静寂。だが倒れた総大将が起き上がる気配を全く見せないのを認めた兵士たちは歓声を上げた。
地響きのような雄叫び。それを聞きながら浮き足だった兵士たちは競って戦果を全線で闘う兵士に伝え、やる気を鼓舞するために、否自軍の長年にわたる戦が終わったことの喜びを伝えようと伝令を走らせた。

『大将、石田三成破れたり』

その瞬間だった。
戦勝気分に満ちた戦場に、一陣の殺気が走った。みんなが一斉に振り返るとそこには一人の男の姿があった。
ふらふらと覚束ない足取りではある。しかし、一兵卒たちは、もっと言えば陣大将を任されてすらいるような屈強な徳川兵が誰もその男に近づくこともできずにいた。
それほどまでに彼からは強い殺気が発せられていた。まるで少しでも近づいたら一瞬にて首を刎ねられそうなほどに。
ある意味水を打ったように静まり返った戦場。そこに禍々しい殺意をまとい進む男は今、ちょうど家康の足元に地に倒れ伏す男の部下だった男だった。
島、左近。
快活さと明るさが目印のような男だと、慶次は思っていた。真面目で思いつめがちな主とその右腕の軍に不釣り合いな明るさ。それでもあの軍の雰囲気を和ませていた男だと。
民と一緒に博打に興じて笑っていた。そんな男と賭け事をしたのも一度や二度ではない。あの男には人を笑顔にする力がある。だから慶次もこの男のことを気に入っていた。
しかし、その時彼が纏っていた空気は普段の彼とは明らかに違っていた。

「左近…ッ」

家康が呻くように男の名前を呼んだ。と、左近はひたりと足を止めた。そしてゆらりと上体が傾いだと思った瞬間に彼は走り出していた。
その速度は先程までの緩慢な動作が嘘か幻かであったのではないかと思わせるもので。
彼の行く手にいたものがなぎ倒されていく。飛ぶ血飛沫。上がる悲鳴。
その姿に慶次は息を飲んだ。そうだ、まるで、その姿は。

「いえやす、イエヤスウウウウウ」

左近は叫ぶと、地面を蹴り高く飛んだ。そして迷いなく家康に向かってその剣の切っ先を向ける。
そこで慶次は我に返ると、慌てて刀を抜き、家康の前へとたった。そして同じタイミングで長曾我部も家康の前に立ちはだかり、その剣の切っ先と足技を止めた。
鈍い感触が腕を伝わり、受け止めた衝撃で踏ん張っていた足が砂地に食い込んだ。その激しい攻撃に一瞬腕が痺れる。
左近は、そのまま押し通せないとわかるとひらりと地面に降り立つ。そしてもう一度地面を蹴り、慶次たちに襲い掛かる。
それを今度は元親と慶次の二人がかりで地面に押し付けた。
腕と足を取られ、不自然な体勢で地面に叩きつけられたため、何処か痛んだだろうにそれでも怯むこともなく左近は酷く強い力で二人を押しのけようとする。
しかし東軍きっての剛腕二人にかかれば流石にそれも敵わない。

「家康、殺してやる、殺してやる―――!」

怒りに釣り上った眦から大粒の涙を流しながら彼は叫んでいた。
その時の表情と言えば狂気に彩られており、今思い出してもぞっとするほどだ。

そんな左近を慶次は加賀前田に連れてきた。そのまま殺してしまってもよかったのだろうが、慶次にとって左近は賭場などで何度か顔を合わせており僅かながら関わりがあった男だ。そして慶次は左近の闊達さを好ましく思っていたため、殺してしまうのは忍びないとそう思った。
それに慶次は助けることができるのであれば無駄な殺生はしたくないと思っている。だから東軍諸将に無理を言って左近を慶次は前田に連れ帰ったのだった。
初め左近は、自分の置かれた状況が理解できなかったらしく、そして彼の主が家康によって殺されたのにも拘らず自分だけがのうのうと生きていることについて酷く落ち込んでいた。
快活で表情の豊かな男だったはずだが、しばらくは笑みを浮かべる事さえもせずにただ押し黙っていた。
だがだんだんと、慶次との会話に応じるようになり、家臣の鍛錬にも付き合うようになってきた。そして今日、こうして慶次の誘いに乗って城下への外出に同伴したのだった。
久し振りに彼らしい表情を見た気がして、慶次は素直にうれしく思った。

と。太鼓の音が止む。どうやら小休止らしい。
皆が食べ物を食べたり飲み物を飲むために櫓から離れていくのを見ながら慶次はそっと左近の耳に口を寄せた。

「左近、せっかくだしちょっとやってかないかい」
「へ?やる?なにをっすか」
「そんなんきまってるだろ、あれだよあれ」
「あれ?」
「だーかーら」

これよ。
慶次は着物の袂に入っていたものを取り出すとそれを宙に放った。
すっと、空の中央で静止し、落ちてくるそれを左近は手を伸ばして掴む。
手の中に納まったものに左近は目を輝かせた。
左近の好きな賭博で使う道具、賽子が二つ左近の掌の上に載っていたからだった。

「マジっすか。さすが慶次さん、話が分かりますね」
「でも利とまつ姉ちゃんには内緒にしておいてくれよ」
「りょーかいっす」

慶次と左近は、祭りの喧騒を背に歩き出す。



* *



『お、目が覚めたか』

視界の先で先程まで静かに眠り込んでいた男が身じろいだのを認めると慶次は顔を覗き込んだ。
茶色の少し長めの前髪と、赤がかった髪が特徴的な男ー島左近の顔にはところどころ乾ききっていない傷が浮いている。そして布団に隠れてわからないがその体のいたるところに布があてられていることも知っていた。
まだ鮮明に赤い傷は痛そうではあったが、左近の顔色は悪くないようだった。
左近は視界に慶次を捕らえると、口の中で小さくけいじさん、と呟いた。
そして同時に左近は自分の側に慶次がいるということに違和を覚えたのだろう。勢いよく体を起こし、部屋の様子をうかがった。それもそのはずである。慶次と左近は何度か顔を合わせ、話をした仲ではあったが根本的には東軍と西軍という正反対な軍に所属をしている武将だった。そしてそれに加え、つい先日戦をしたばかりだった。そう、それも天下の趨勢を決定するような大きな戦を、だ。

左近が寝かされていたのは一組の布団と、火を灯す燭台だけがある加賀城内の簡素な部屋だった。当然ながら部屋を仕切る戸は普通の襖であり、雨戸だ。牢の中でも、格子でもなければ窓のない暗い部屋でもなく、戸に鍵はかかっていない。
そして左近の手には手枷をはめられている訳でもない。その上誰か見張りが外にたてられている気配もない。
出ようとさえ思えばいつでも外へと出られる環境に置かれている不可解な状況に左近は不思議そうな表情を浮かべた。

『なんで、俺は生きてるんだよ』
『なんでって、別に殺すこともないだろう』
『あんたらの敵の直属の将なのに、かよ』

左近は鋭い視線で慶次を睨み付けた。
敵意と殺意に満ちた視線は酷く剣呑としている。
そんな視線をやり過ごしながら慶次は肩をすくめる。

『特に他意はないんだ。ただあの場で死なせたくなかった。だからアンタを連れ帰った。それだけだ。アンタを殺した方がいいってやつだっていたよ』
『だったら…』
『俺の気まぐれ、と取ってくれても構わないよ』

へへ、と笑うと一層左近の瞳は鋭く細められた。
まるで手負いの獣の様だと慶次はその様子を見て思った。
彼が彼の敬愛する主に仕える前は相当あれた生活をしていたらしいが、その時もこのような表情をしていたのだろうか。
それとも、今の状況がそうさせるのか。
しかし、どっちにしろ慶次にはどうでもいいことである。慶次がしたいことは左近を怒らせることでも、それを発端とした喧嘩をすることでもない。
と、慶次はそこで手に持ったままにしていたものがあることに気が付いた。
目が覚めたら、彼に渡そうと思って持っていたものだ。慶次は少し腰を浮かすと左近のすぐそばに座り、手に持っていたものを差し出した。

『これ、アンタにやるよ』

それはところどころ焦げ、薄汚れた、紫色の布だ。
しかし、左近はそれを見た瞬間、目を大きく見開いた。そしてそれを受け取りながらみるみるうちに表情を歪めた。
さっき迄の威勢が嘘のようにうなだれる左近の肩に優しく手を置いた。

『左近、これからどう生きるかはあんた次第だ』
『………』

取りあえず、しばらくゆっくり休みな。
慶次は何か言いたげな左近に頭を乱暴に撫でると、立ち上がり部屋から出た。
世界には柔らかい、月の光が降り注いでいる。



* *



「いやー綺麗に素寒貧だわ―。こんなに負けたの久しぶりっすよ」

そういうと左近はごろんと縁側に寝そべった。
前田の城内は静まり返っていた。遠くからはまだ祭囃子の音が聞こえている。
恐らく利家とまつはまだ街の方で町人たちと騒いでいるのだろう。
慶次と左近は先に城に戻り中庭に面した縁側に座っていた。
既に辺りには夜の帳が下りている。空には三日月が昇り、柔らかい光を世界に降らせていた。
慶次は二人分の御猪口を置くと、そこに町人からもらった酒を注ぐ。
ゆらりと光沢がある液体が揺れる。そこに月が映るのを眺めながら隣で楽しそうに笑う男に慶次は苦笑した。

「今日は本当に気持ちがいいくらいの負けっぷりだったもんなぁ」
「マジで今日のはやばかったって」

祭りで気分が高揚して、そのままの勢いで踏み入れた鉄火場。
全部スッたといっても過言ではないくらいに今日の左近は負けが込んでいた。
左近はあの場を盛り上げるすべを心得ている。自信満々に目に賭け、派手に負ける左近の姿に加賀領の民たちは大いに笑っていた。
その空気に飲まれていたのであろう。気付いたときには左近の負けが嵩んでいた。
目減りしていく彼の所持金。
もう彼に賭けるものがなくなる寸前で慌てて慶次は左近を鉄火場から引きずり出し、この城に連れ帰った。
左近は帰路、自分が誘ったくせにと終始不機嫌そうだったがそれでもおとなしく慶次についてきた。

「俺さ、今までアンタに勝ったことなかったよ」
「へへ。最近は、ずっとツイてたんでね」

石田軍にいたときはマジで負けなしだったんすよ?刑部さんと三成様、あんな陰気な顔しておいてなかなか博打の神様だったのかも。
じゃらっと慶次が先程たわむれに投げた賽を宙に放り投げながら左近は笑う。

「あ、寧ろ利家さんとまつさんが勝利の女神で加賀の人は負けなしなんすかね」
「おいおい、そしたらアンタにまけまくってた俺は何なんだよ」
「慶次さんは不幸の星のもとにでも生まれたんじゃないっすか。それか半兵衛様に呪われていた、とかどうっすか」
「シャレにならねえ…」

肩を落とし項垂れた慶次に左近は大声をあげて笑った。
そして一通り笑い終わると左近は感慨深げにそれにしても、と呟いた。

「いい国っすね、さすが慶次さんの国だ」
「気に入ったかい」
「とっても。領主も民もみんな幸せそうで楽しそうだ。きっとこれを天下泰平っていうんっすよね」
「俺も、好きなんだこの国が。風来坊といわれた俺が残りの命と人生、全部賭けて守ってもいいってくらいには」

慶次はそこで一瞬言葉を切った。
それは自分の中にある言葉を口にすべきかを迷ったからだ。
左近をこの場所に連れてきたときからずっと慶次が思っていたことだった。
そしてこの二か月の生活の中で強くなった思いでもある。
民と笑いあい、楽しそうにしている左近に。
そしてなにより。彼の敬愛する主人の。
慶次は意を決すると、御猪口に残っていた酒を一気に煽る。
酒精が喉を焼く感覚をやり過ごすと、慶次は左近の方へと体を向けた。
左近はそんな慶次のことを不思議そうな目で眺めている。

「なあ左近」
「なんすか」
「アンタに行くところがないんなら、どうだい。ここで一緒にみんなの幸せを守るってのは」


アンタの命、俺たちに賭けてみないか。


慶次の言葉に。左近は手で弄んでいた賽子を取り落した。
ばらばらと、畳に落ちたそれは音を響かせる。
それでも左近は賽子を拾い集めることもせずに、ゆっくりと体を起こすと、慶次の目の前で胡坐をかいた。
そしてゆったりと目を細めた。

「なあ慶次さん」
「ん」
「ありがとうございます。俺、めっちゃくちゃ嬉しいっす」
「うん」
「でも、すんません。やっぱ俺三成様以外に賭けるなんざできねえよ」

左近は明るく笑ってみせた。しかしその実表情は引きつっており、茶色の瞳には悲しみが揺れていた。

「だって俺の命は、三成様に賭けたから。三成様の生き様に賭けたんだから途中で賭けから降りてほかのもんに張りなおすなんざイカサマっしょ」
「左近」
「なーんてかっこいいこと言ってみたりして」

ずっと考えたんですけどね。
そういうと左近は懐から一枚の布を取り出した。
紫の布。それは慶次が左近を加賀に連れて来た時に渡したものだ。
それを左近は胸にしっかりと抱いた。強く強く。

「俺、やっぱ無理だわ。三成様がいない世界じゃどうすればいいのかわかんねーよ」

この腕もこの足も命も全部三成様に捧げたんだ。
左近は慶次の方を向いて吹っ切れたように笑った。そこには今まであった迷いや、弱さなんてものは微塵もなく。あの凶王石田三成の隣にあったときと同じ、自信に満ちた表情だ。
そしてそれは残念ながら、加賀に来てから彼が見せた表情の中で一番明るく、清々しい美しい笑顔だった。
その表情に、慶次は眉を顰める。しかし、左近はそんな慶次に気付かなかったように慶次の隣に座り直し、酒瓶を取り上げた。そしてへらりと笑う。

「って、湿っぽくなっちまった。はい、この話は終わり。ねえ慶次さんこれ、飲んでいいっすか?仕切り直しってことで」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、いただきまーす」

明るく豪胆に。
ゆるりと浮かぶ三日月ごと、左近はその杯を飲み干した。



* *



焦げるような臭いが、漂っていた。
先程まで激しい戦が行われていた戦場では所々で火がたかれている。
その火が焼いているものはこの戦での敗軍である西軍総大将、石田三成の旗だった。
赤く、強く燃え上がるそれに旗を投げれば、あっけなく炎に巻かれ燃え消えていく。石田の誇りが、そして意志が一瞬にして灰になっていく。
それをどこか物悲しい気持ちで慶次は眺めている。そして堪らなくなり慶次は隣に立つ男に一つの提案を口にした。

『なあ、家康。左近は俺に預からせてくれよ』

同じように戦場だった場所で行われている事後処理を眺めていた家康は一瞬驚いたような顔をして、そして困ったように眉を寄せた。
そして足元に倒れている男に視線を向ける。
一人は既に絶命している西軍の総大将石田三成。そしてもう一人は石田の手足として戦場を駆け回っていた男、島左近だ。
左近の処遇をどうするべきかと言われれば、恐らく西軍の首謀者として石田三成同様、殺しておくのが定石ではあろう。
それでも、慶次は何故かそうしたくはなかったのだ。
慶次は他の人たちが何かを言う前に気を失いぐったりとしている左近のことを抱き起し、左肩に担いだ。
そんな慶次を見ながら、家康は悲しそうに笑った。

『慶次、本当に連れて行くのか』
『ああ』
『止めても、止まらぬのだな』
『ああ』
『わかった。それならば慶次、左近のことはお前に任せよう』

『だが、ひとこと言わせてくれ。譬えお前が左近を止められなかったとしてもワシはお前を恨まんよ』

慶次が驚いて振り返ると、家康はゆったりと口角を持ち上げる。
そこに慶次は諦めたような色を認め、奥歯を噛んだ。

『なんで、なんでそんなこというんだよ。お前だって左近のこと死なせたくねえって思わねえのか』
『思う。だが慶次、こいつの帰る場所はこの世界に一つしかないんだ』

たった一つだ。
ワシらのように育った国があるわけでもない。
迎えてくれる家族も、友達も何もかも左近にはない。
主義も主張もない、ただ唯一。

『帰る家もない、戻るべき過去もない。左近には三成しかいないんだ。だがそれをワシが奪った。だから左近は必ずワシのところに来る。ワシを殺すために』
『……家康』
『いいんだ、慶次。それがワシが背負う業だ』

左近を、よろしく頼む。
家康はそういうと慶次に頭を下げた。



* *



「慶次、慶次」

乱暴に肩をゆすられて慶次は目を覚ました。
視界に入ってきた空の色はまだ藍色をしている。そしての次の瞬間、空の色を判じることのできる自分に驚いて体を起こした。
どうやら縁側で酔い潰れて眠っていたらしい。傍らには飲み始めの時の酒瓶のほかに、炊事場から持ってきた秘蔵の酒の瓶も転がっている。
固い床で眠ったため、体の様々なところが痛む。慶次は体を伸ばしながら利家のことを仰いだ。
すればそこには悲しそうに眉を顰める利家の表情があった。

「なんだい、利。そんな顔して」
「慶次、左近を知らないか。城内のどこにもいないんだ。」

想像していた通りの言葉に、慶次は苦笑する。
何故、とは思わなかった。それほどまでに昨日の左近の目には強い意志が満ちていた。
あの瞬間、慶次は確信した。自分の言葉は確かに左近届いたのだろうが、左近を動かすには足りなかったことを。
否、そもそもあの男を動かすことなど誰にも―彼の唯一にして絶対の主君にしかできないことを。

「…そうかい」
「あいつの服も、武器もない。その代りにこれが置いてあった」

忘れていったのだろうか。
そういいながら利家が差し出したのは紫色をした一枚の布だった。
慶次が左近に渡し、左近が昨日、宝物のように胸に抱きしめていたもの。
それは戦火で、そして汚れてぼろぼろになってしまった石田の旗だった。
紫の布に染め抜かれた家紋ではない、白い文字。

大一大万大吉。

一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる。
あの不器用な三成が掲げた旗印。そして左近がともに掲げ、背負った印だ。
慶次はあの日、左近にとってなにかそれが歯止めになればと思い、徳川軍が執拗に念入りに石田の旗印を焼いている場所から持ち出した。
慶次は、家臣に慕われ明るい性格をしている左近は人を幸せにすることができると思っていた。だからそのことを伝えるために酷だとは思いながらこの旗を左近に託した。
そして、賭けた。彼が石田の意志をくんでくれることに。家康の危惧が現実とならぬために。
しかし。

(負けちまったってことかよ、俺は)

実際には左近は三成の思想に共感をしていたわけではなかったのだろう。彼はただ、自分の主人の望みを叶えることができればそれでよかったのだ。その命全てをかけて、たった一人の男の望む願いを。それがどういうものであったとしても。
もしも、左近が三成の思想に共感をしていれば三成の思想に沿った生き方だってできたはずだ。しかし、彼は選ばなかった。そして置いて行った。自分のこれからとる行動が三成の本当の願いとは違うことがわかっていたから。
万人のためにではなく。たった一人。彼が慕いそして愛したこの世界で彼を待つたった一人のために。
彼は、走るのだ。いつだって。

(そうか、左近お前は)

本当に三成が、全てだったんだな。
他なんてどうでもいいくらいに、お前は石田と居ることが、そしてあの男のために命を賭けることだけが全てだったのだな。
慶次はゆっくりと目を閉じ、体の中の息を吐き切った。
代わりに入ってきた冷たい静謐な空気に目が覚めるような感覚を覚える。

「左近はもう帰らない。おそらく家康のところに行ったんだ」
「それなら、竹千代に早く伝えないといけないのではないか」
「いや、その必要もないんだよ。利」

「あいつ、わかってるんだ。左近が来ることを」

だから左近はたどり着けない。
きっと、あの男の刃は家康には届かないのだろう。
それでも、左近はそれでいいと思うのだ。家康を最後まで憎み、倒さんとすることこそが石田三成の傍にいるというあの男の生き様なのだ。
途方もなく、悲しくともそれがあの男の選び取る幸せなのだろう。
慶次は深くため息を吐いた。

「なーんかうまくいかないな、利。俺は左近を救いたかっただけなのに」
「そうだなあ、人を救うって難しいからなぁ」
「ほんとだよ」
「だが某は、左近がちゃんと考えてそれを選んだのだとしたら、それでよかったんだとおもうぞ」
「うん?」
「怒りのまま、冷静な判断のできないまま行動していたらきっとどうなったとしても後悔しただろうから」

混乱のままに行動を起こしたのではなく、ちゃんと、左近がそれを納得して選んだのであればそれでいいではないか。
そう、優しく微笑む利家に慶次は苦笑した。

「そうか、そうだな。その通りだよ、利」
「うん。さて慶次。祭りに後片付けがあるんだ。手伝ってくれ」
「はいはい。俺は身の丈に合った幸せを護るだけさ」
「それでいい」

先に行くぞ。
そういって歩き出した利家の後ろを歩きながら慶次は後ろを振り返る。
そこにはやはり先程まで慶次と一緒に笑いあった男の姿はない。
慶次は彼の姿を思い浮かべながら目を細めた。悲しい決断をしたにもかかわらず、明るく誇らしく笑った彼を。

(願わくば)

アンタの願いが叶って、最後くらいは笑っていてくれればいい。
そう思いながら慶次は共に歩めなかった道へと、歩き出した。





後日。
将軍の居城に一人の男が乗り込んだとの報が入った。
夜の時間だったそうだ。月を背負った男は江戸の城へと急襲をかけた。
江戸の城はそれでもひどく堅牢で、男は目指した場所にたどり着くまでには満身創痍で既に戦える状態になかったという。
屈強な家臣たちに押さえ付けられたまま、城の主に引き合わされた男はその城の主の手によっての生涯を終えた。
その死に顔は安らかで、どこか満ち足りたようだったという。







material:Sky Ruins