冷たく暗い月光の下で
切り裂かれたものは何であったか





そして僕は世界を愛す






「……ッ」

目をあけると、視界にはいつもの見慣れた自室の天井―ではなく知らない屋敷の天井だった。
ここはどこだと体を起こそうとする。しかし体中が鉛を詰められたかのように重く、動くこともままならなかった。
しかも具合の悪いことに、少しでも体を動かそうものなら、全身に激痛が走った。瞬きするのすら億劫で、ああこのまま気を失ってしまえたら、もっと言えば死んでしまえればと思うくらいだった。
口から洩れる呼気も熱く、湿っており、心臓の鼓動も酷く早い。そして全身が熱い。
鍛錬の後や、ほとんどないが高熱を出したときもこんなに息が熱いことも、心臓が早鐘を打つこともなかった。どうしたというのだろうか。左近は記憶を辿ろうとするがそれすらも朦朧とする意識の所為でうまくいかない。

(誰か…)

声を出そうとしたところで、ひゅっと冷たい空気が喉に一気に滑り込み、左近は思わず噎せた。
げほげほと乾いた咳が喉から零れ、その衝撃に左近の傷口は痛みを訴えた。
痛みに顔をしかめ、叫びたい衝動に駆られるがそれもままらない。もどかしく思いながら、荒く息をつく。
その時だった。

「左近…!」

鋭い声が鼓膜を突き刺した思った瞬間、視界を人影が遮った。
ぼやける視界を何とか目を細めて明瞭にする。すれば銀髪の男が左近のことを覗き込んでいた。
ほっそりとした小柄な男。それは自分の主君である石田三成その人だった。しかしいつもと違い、三成は酷く憔悴をしていた。
いつもぴったりと張り付いている銀糸はところどころ解れており、白い肌は一層に青白く、目の下には暗い隈が刻まれていた。
そして驚くべきことは、三成の目が真っ赤に充血をしていたことだ。
左近は三成の痛々しいまでの姿に、思わず目を見張った。

「み、つなりさ、ま」
「さこん、左近、目が覚めたのだな」
「は、はい」

力なく、三成の言葉に答えると、三成は表情を歪めた。
恐らく、三成は嬉しく思ってくれており、同時に心配をしてくれている。そして安堵もしたのかもしれない。
そんな表情を見せる三成を視界にとらえながら、左近は靄の向こうにある記憶を何とか辿り寄せる。

(ああ、そうだ俺)

徐々に記憶がよみがえってくる。
確か、自分はこの主君に切り裂かれたのだった。
豊臣秀吉と竹中半兵衛の死を受け入れることのできなかった三成は我を忘れ、現実を諭そうとする左近を家康の間者とすり替えて切りかかってきた。
三成の精神は脆い。そうでも思わなければ彼は自己を保つことができなかったのだ。
それを左近はよくわかっていた。純粋でまっすぐで不器用な主君のことを傍で見続けてきたのだ。
だから、左近は腕を広げ、自分の体を三成に無防備にさらした。
彼が、自分を切りつけることで、秀吉を助けられなかった無念さを、誰かにぶつけることで解消できるように。それで正気に戻らんことを祈って。
左近は、賭けたのだ。神に。
その結果、確かに左近は賭けに勝った。三成の双眸には光が戻った。そして今、三成が生きていること、それが何よりも雄弁に左近の勝利を示している。
しかし、左近の耳には三成の悲痛な叫びが残っていた。意識が闇に溶けていく中、何度も何度も自分の名前を呼んでいた三成の声が。
そして憔悴し切った表情で自分を見下ろす彼が、どれだけ傷付いたのかを思い知る。
左近が怪我をおったことを、その傷をつけたのが自分であるという事実に、三成がどれだけ。
そう思うと、左近の口からは謝罪の言葉が零れ落ちていた。

「すいません、した。みつなりさま」
「何故貴様が謝るのだ。貴様は悪くない。故に謝罪は許可しない」
「だって、おれ、ずっとそばにいたのに、だから」

「ちゃんと、ちゃんとあんたをとめなきゃいけなかった」

自分の命なんかを賭けずとも、貴方を。
ちゃんと傍にいたのだ。今までずっと。そのために「左腕に近し」という意で左近とまで名乗ってきたのだ。
だからこそ、止めなくてはいけなかった。わからせなくてはいけなかったのだ。
貴方がこの世界に必要なことを、豊臣秀吉の為だけに生きているのではないことを、自分達の世界の王はあなただということ。
貴方がいない世界で生きていけない人がいることを。

「だから、謝ります。すいませんでした、みつなり、さま」

左近はそう謝り、視線を下げることで平伏の代わりとした。
そしてもう一度、目をあけるとそこには今にも泣きそうな三成の顔があった。
しかし、涙はその頬を伝わない。三成は憎悪から泣くことはできるが、それ以外のことに関して泣くことが酷く不得手な人間だ。そういうところもひどく不器用だった。それを左近はよく知っている。
左近は痛む腕を何とか伸ばすと、三成の小さい頭を撫でる。さらさらとした質感の髪も、この頃の疲れからかどこか乾いている。
ああ、本当にこの人は。やはり置いて行かなくてよかった、そう左近は思う。

「泣かないでください」
「泣いてなどいない」
「そうですね」

頭に添えていた手を、後頭部に持っていくとそのまま左近は自分の方へと引き寄せた。
三成は体制を崩し、左近の肩口に顔を埋める格好になった。
その衝撃に全身が痛みを訴える。しかしなんとか左近はその悲鳴を飲み下す。
そして、三成の背中を優しくたたいた。

「みつなりさま、もう俺は大丈夫ですから、ちゃんと休んでください」
「左近。死ぬな。死ぬことは私が許可しない」
「はいはい。もう大丈夫ですから、ね」

子供のようにあやすと、三成はうとうととゆっくりと瞼を下ろしていく。
久々にみた主君の穏やかな表情に、左近は苦笑する。
それは家康が三成を裏切り、豊臣が死んでから終ぞ見せなかった表情だったからだった。
己が死んでいたらこの人はこんなに穏やかに眠ることもなかったに違いない。
ここに戻ってくることができたことに感謝をし、左近は三成に聞こえないように小さく呟いた。

「ただいま、三成様」


***


「やれ、やっと落ち着いたか」

暫くし、三成と左近が寝息を立てはじめたころ、部屋の壁に背を預け、一部始終を見守っていた大谷吉継はゆっくりと立ち上がった。
そして部屋を横切ると左近にかかっていた布団をずらし、三成と左近が二人納まるようにかけなおす。
傷から生じた高熱が起因し、汗で貼りついた左近の髪を額から払い、乾燥し、艶の失せた三成の髪を撫でると大谷は二人の枕元に座った。
規則正しい寝息を聞きながら、大谷は一つ、深いため息を吐く。

「全く、太閤も賢人も厄介者を二人も残し逝ってしまわれるのだから全く人が悪い」

しかし、と大谷は思う。
家康を失い、その上あの二人を失っても、三成が生きていることができているのは偏に左近のおかげなのだろう。
おそらく、自分だったら止められなかった。
狂気に落ち、修羅と化した三成を恐らく自分は止められなかっただろう。
否、止めるのではなく、一緒にその深淵に落ちてやることしかできなかったに違いない。
三成にとって、自分は彼を取り巻く闇の一部と同じであろうが、左近は小さいながらも光なのだ。
この現世に三成を縫いとめるための。

「良い拾い物をした、な。三成」

願わくば、と思う。
このままこうして三成が、左近がそして石田軍が穏やかに生きていくことができんことを。
他人の不幸だけを願ってきた自分にしては珍しく、そう、思うのだった。

「我にも焼きがまわったものよ」



部屋に差す月の光は冴え冴えとしていたが、しかし明るく、そして暖かかった。











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