もういっそのこと。





呪詛






 海だった。
 燦々とさんざめく太陽、夏の白い雲がぽっかりと浮いた高く青い空。太陽の陽を照り返す波、どこまでも続く水平、そこに混じりあう空。吹きわたる潮風、そして輝く白い砂浜。
 それの上をただ歩いていた。足を出す度に、砂に足が沈み、細かい粒子が、潮に濡れた足にまとわり付く。その感覚、ざらりとした触感が元親は好きだった。そのままあてもなく、元親は歩き続ける。
 果てしない、そう思われるほど地平まで砂が敷き詰められている。そこをただ無心に、何かに導かれるがまま、元親は歩き続けた。しばらく、そのまま行けば、一人の男の後ろ姿が、陽炎の向こうに徐に現れた。目を凝らし、さらに、歩を進める。見えたのは華奢な体躯をした、元親にとって、とても見なれた男の後ろ姿だった。ただ何もせず、僅か顔の角度をあげ、太陽の光の中に佇む男は、白い着物を着、風に茶の髪を遊ばせていた。潮風の湿度も粘度も感じさせない髪の動きは、少し不自然ではあった。それでも何故かそんなことは気にならない。無性に元親は駆け寄りたい衝動に襲われ、声を出した。

「  」

 声は、砂に、潮風に拐われる。と、青年が振りかえる。さらりと細く脆い髪が揺れた。白い肌をした、男だ。こんなにも暑いにも関わらず、顔にあせひとつなく、日焼けの紅潮ひとつ肌にはない。更にこの光景と不釣り合いにさせていたのは男の表情だった。能面のように一切の起伏がない。こんなにも光に溢れていると言うのに、目にも光が宿っていず、深淵のようであった。
 あんなにも光を愛した男ではなかったか、そう思うが、その光を奪ったのはたしかに自分であった。だからだろうか。真っ直ぐと芯が通り、揺るがず歩んでいたはずの男から感じるのは悲しくなる程儚く、掴んだら折れてしまいそうな、その様な雰囲気だった。平らな凪いだ海のような、それでいて椀に張った水のように細かな振動で崩れてしまいそうな、そんな。その様に元親は無性に突き上げるような悲しみを覚えた。

「何故その名を、呼ぶか」

 傍まで歩み寄った元親を、少し首に角度を付け、見上げるようにし、徐に、男は問う。そこにも感情の波もわずかな起伏もない。ただ、言葉を並べた、音、それだけだ。怒りも、落胆もまして悲しみも疑問すらない。あんなに激した男の姿など微塵と垣間見ることもない、それがなぜか無性に絶望として降りかかった。胸がつまる。その姿は孤独に生きていた男の姿と比べても余計に痛々しかった。

「別にいいじゃねえか、  、名を呼んでもよ」

 また、言葉は消えた。それに元親は気付かないふりをした。男には不快そうな表情も不思議そうな表情も見えない。諦めたのか、絶望に、むしろ孤独に心は破壊されたのだろうか、そう思うほど、表情が、ない。表情筋一つ、男は動かさなかった。伽藍に言葉を投げかけているような、虚無感。その事実に元親は段々と焦燥にかられ始める。果たしてこの男に何が届いているのか、もうわからない。それでも元親はなにかを届けたかった。そうだ、今までは何かそれが意味のないことであっても届いていたのだろう。元々、自分の国以外に興味のない男だったが、元親が見せた様々な事物についてそれでも何かしら届いている、と言う実感があった。好意も嫌悪も憎悪も、殺意でさえ。そしてその反応を楽しんでいた。冷悧な男が、元親の暴言に、真実を突きつける言語に、信じられないほどに激昂することさえ。それが、届かない。それがこんなにも辛い。怖い。じわり、汗が滲んだ。
 男はその様子に、少し首をかしげた。しかし、怪訝そうな表情すら、見えない。元々感情表現がない男ではあったが、それでも僅かな機微に元親は気付く自信はある。それだけの時間を重ねてきたはずだ。しかし、見えない。そんな元親に気付いたか、男の唇から言葉がこぼれる。

「何を恐れておる、長曾我部よ」
「は、西海の鬼が何を恐れてるって」
「それは貴様がよう、わかっておるだろうに」
「……………」
「愚かな」

 じっと、男は深淵のような瞳で元親を見返した。嫌な予感がした。暑いはずなのに、身体中の肌が粟立つ。やめろ、頼むから。そう言葉を発する前に耳をふさいだ。強く強く、強く。それでも声は、元親の鼓膜を、脳髄を震わせた。

「貴様、我を忘却するのではなかったか」
「……………っ」


「早う忘れよ、貴様が我を閉じ込めたはずであろう、早う」


 顔をあげたとき、元親の眼に映ったのはやはり能面のように、感情ひとつ、そう、嫌悪の感情すら見せず佇む、元親が闇へと葬った中国の覇者、詭計智将、毛利元就の姿だった。



++++



「……っは…!」

 まただ。浅い眠りから唐突に目覚めた元親は、身体中にべったりとかいた汗と、乾いた喉を自覚しながら、ぐったりと元親は床に倒れ込んだ。堅い板間の上でいつの間にか眠りに落ちていたらしく、体中に鈍い痛みがあった。しかしもう慣れた。もうしばらく布団で寝た記憶が元親にはない。眠ることも既に放棄している。繰り返される夢を、疎んでいたからだった。だが、生命維持のために身体が渇望する睡眠に、無意識に飲まれ、意識を奪われたときすら、見る夢は同じだった。繰り返し繰り返し、同じ夢に元親は囚われていた。
 身体の体勢を変え、空を見上げる。こんなに青く、澄んだ空の下にいても、元親の心は深く、薄闇に囚われ、沈んでいた。元凶はあの日、己が吐いた言葉だ。

『てめぇのことは綺麗さっぱり忘れてやるよ』

 相手を非難するために吐いたあの言葉に囚われたのは、毛利ではなく自分だったのだと元親は、気付いていた。元親は卑怯な手が嫌いだった。裏で計略を進め、攻めるくらいなら真っ向から戦う、これが元親のやり方だった。反対に毛利は、綿密な計画をもってしなければ他国を攻められない、そんな男だった。わかっていた筈だった。それでも許せなかったのだどうしようもなく。己をだまし、同盟相手ですら、簡単に騙し遂せたことも、己の部下を、惨殺したことも、全て。

忘れてやる。

 そう吐き捨てたときの毛利の表情も覚えていた。絶望、していた、強く。思えば長く、戦ってきたのだ。その相手に好敵手としても記憶されぬ事実に、絶望したのだろう。己の人生を、否定されたことに、絶望したのだろう。ざまぁ見ろ、そう思った。しかし、あの男を殺し、怒りと戦勝気分が去ったあとに元親の心を襲ったのはいいようのない後悔だった。そして絶望だった。
 忘れられるわけがなかった。あの孤独で悲しい背中を、生き方を、元親は見下しつつも悲しく、愛しく思っていたのだから。

「毛利……」

 もしも叶うなら、死に行く毛利を強く抱き締め、この世に生きる全てがお前を忘れても、俺がお前を覚えている。安心して逝け。そう伝えたい。しかし夢の中の毛利でさえ、それを許さない。忘れるのではなかったのか。毎夜毎夜、無表情に元親を責める。
 囚われているのだ。どこまでも。自分の言葉に。
 いっそ死んでしまえれば、そう思ったこともある。しかし律儀な元親は、毛利の中国も、部下も見捨てることはできなかった。それこそ、毛利との約束だったからだ。まったく難儀なものだ、と元親は思う。自分は毛利への言葉と毛利との約束に、縛られているのだ。
 ああもう本当にどうしようもない。




「許してくれ…」




 もう何を許されたいのかすらも判然としない。ああ願わくば、夢に出てこないでほしい。出てくるなら、何かしら反応を返してくれと、そう切に願いながら、気を失うように西海の鬼はまた眠りに落ちる。
 地獄はまだ終わらない。







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毛利を忘れるとかほざいてましたが、絶対兄貴は忘れられないと思うんだよ!な妄想でした。
兄貴は段々狂っていくとおもう、みたいな。




material:Sky Ruins