天涯孤独の幽鬼





卯の花腐に消ゆ






「お前は本当に何処に行ってしまったんだろうな」

 降り続く雨は、途切れることを知らない。雨の格子の中で、政宗はただ一人、庭を眺めていた。四季を刻む植物は曇天の暗い光の下で、息を潜めている。静かに、ただ耐えるように静かに濡れ続けている。這い寄る湿気に、政宗は古傷の右目が疼く様な、そんな感覚を感じていたが、特に意識することでもない。縁側の柱に背を預け、ぼんやりと、雨に濡らされる世界を、みている。
 明智光秀が、この屋敷から忽然と姿を消したのも、このような雨の日だったと、政宗は思い出す。朝起きたら、光秀は何処にもいなかった。寧ろ抱いて寝たはずであったのに、腕の中にその感触もなければ、熱すらもない。床の中に髪一つも落ちていなかったし、温度すら、布の形すら、残していかなかった。それだけでない、光秀が使っていた部屋にも、何も残っていなかったし、履物すら、なかった。出かけたか、とは思わなかった。屋敷の前の道は、前日から降り続いた雨の所為で、酷くぬかるんでいたため、農作業に出かける女子供があるいても足跡がくっきり残るはずであったからだった。忽然と消えた。本当にそれ以外に言い表しようのない、そんな消え方だった。
 寧ろ、本当にこの奥州に、いたのかすら、今となったら判然としなかった。本当に亡霊のような男だと、政宗は思う。

『政宗公』

 絡みつくように、政宗の肩にまわされたあの、冷たく、細い指の感触。地の底から、魂を揺るがせるように響く、暗い声。あの異端の最たるである白く長い髪も、肋の浮いた病的に細く華奢な体躯も、全てこんなにも鮮明であるのに、存在感はひどく希薄だったな、と政宗は思う。それは、たたえられた水面のようだ、そう光秀のことを思っていた。そこにあるにもかかわらず、直ぐに消えてしまうような、その儚さ。もっともあの男を儚いなどと言ったら、天下の笑い物になるのも、気味悪がられるのも必至だろうが。
 
「お前に帰る場所なんて、ねえだろうに」

 山崎で死んだと目された男。主君を殺した不義の人物。光秀をよくいう人物に政宗は今まで一度も出会ったことがなかった。ここまで徹底的に嫌われている光秀に帰る場所など、存在しないと政宗は思っていた。だから、自分の前から消えることなどないと、そう思い込んでいたのに。時々、過去すら捨て去ったのではないかと思わせる風貌で普段過ごしている光秀だったが、時々、織田への憧憬を、そして愛着という名の執着を見せることはあった。しかし、その魔王すら、この世にはもういない。その男のもとへとかえることもできない、なぜならあの男が虚無へと葬り去ったのだから。かつて、名を共に連ねた秀吉も、光秀を一番殺したい人物の一人となっていた。あの男にはすでに隠遁するしか、生き方はないはずなのに。ここで生きるのが怠惰ではあるが、確実な生き方となったというのに。

『政宗公』
『なんだ』
『私、やっとわかったんですよ、ずっと考えていたんです、その答えが、やっと今』
『what?』
『私、行かなくてはなりません、』

 最後の夜の会話の断片が政宗の脳裏に、唐突に、浮かんだ。右目が疼き、思わず、政宗眼帯の上から、右目を押さえた。あの夜、政宗はその言葉に特に意味を問う事などしなかったし、同時に相手も望んでいなかった。しかし、その言葉を口にしたときの、あの、左目に映った、熱に浮かされた表情を政宗は思い出す。あれは情事に浮かされた表情だったのだろうか、それとも、何か。
 いやな予感が、する。あのような表情を、思えば、政宗は一度も見たことがない。目が、恍惚に濡れ、頬が僅かに紅潮していた男の眼には、何が映っていたのか。己か、それとももっと、別の。いや、まさか。あの男は死んだはずだ、間違いなく。それは間違いがないはずなのに、では何だ、この予感は。
 

「政宗さま」
 
 急に肩を掴まれ、我に返った政宗が振り返ると、右目が心配するような眼を向けていた。それもそのはずだ、今日はあまり暑くないのに、政宗の額には汗が浮いていた上に、顔は少し青ざめていたに違いない。
 右目は近くに落ちていた羽織を政宗に優しくかけると、お加減でも、と優しく聞いてきた。その心遣いに感謝しながらもかぶりを振り、居直る。すれば、とくに問題がないとわかったのだろう、一瞬安堵したように目を伏せ、平常の態度と表情に戻る。

「何だ小十郎」
「徳川から、今すぐこちらに来るように、との知らせが」
「Ha?何なんだ急に」
「さあ、何でも小早川の東軍参加への説得の協力を仰ぎたいとか」
「ああ、わかった、今仕度する」

 掴みかけた記憶の断片と、不吉な予感を振り払い、立ち上がる。最後に、庭に視線を向けたが、ただそこにあるのは、雨の格子だけであった。


















『きっと、待っていらっしゃる、いいえ、私が、逢いたいのかもしれません、信長公に』



















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